(はざま)生きて 第2章【希望2】
心の時代

社会に物が溢れ、溢れながらも欲求は満たされず、心も豊かにならず、希望の光を見い出し難い昨今。社会が豊かになり物は有っても、どことなく人気には活気のなさすら感じるこの頃であり、この先の生活不安を抱える中高年層は年々多くなっている。現代の若者達ともなると、盛況な豊かな生活の中で育ってきたせいか、この世相にもあまり大した動揺もなく他人事のようで、社会や他者との煩わしい人間関係は避けて通る代わりに、将来の事もあまりこの社会に期待せず、独善として悪びれないマイペースな若者達は多いといわれる。

 どのような人生観を持つにしろ若い世代は兎角、世間から非常識と呼ばれる不良族が巷で目を引くのであるが、それ以上に輪を掛けて悪く成長し、社会を乱す大人族も目立ち、それを象徴する事件は日々暇がない。我々は老いも若きも恐らく善悪の境を知らない、自己中心的な存在である。そんな自己中心的な度量にもそれぞれの識(物事の善悪を分別する心の本体:深層意識)というものが存在するが、善に勝る人でさえ己という存在がどういうものかを知り得難いのである。そんな人間同士の流れの中で文化が作られ、その時代性にあった社会の価値、人生の価値、個人の価値などとなって世相に現れ反映されてゆくけれど、何時の時代においても人間の普遍的価値として潜在する【心】というものの中で、人は常に不安や恐怖に戸惑いながらも揺れ動いているのである。

これからは、益々いろいろな人生観や価値観を持った複雑な人の社会へと広がってゆくであろう。そして、この時代を反映した新たな選択肢も増え、広く国際化した文化の混じり合いによって、独創的な生き方を目指す人達も、また増えてくる。現代に問われるこの心の時代とは、今や国の在り方を中心に、人種や民族や生活環境全体の問題にまでおよび、国籍や世代の性別を問わず、個々の道徳観や資質を人間性の内面に問うものである。

 このような時代を迎えて来たことを掘り起こしてゆくと、我々は遠い昔から豊かさを求めてこの競争社会の中で生活するうちに、自我と欲望だけが心に定着し、調和する意識がお座なりにされ、はっきりした利害関係だけがこの現代を表徴してきている。そこには人間本来の特性という1面もあろうが、心に価値を求める時代から物質社会に価値を置き始めた時代だと言えるであろう。何はともあれ人生で一番難しくも煩わしく、理解し難いのが、この人との価値観や人生観の違いから生じる人間関係である。誰もが人生、こうありたいと願う気持ちを持つ中で、これからの未来を眺望した時、この心で生み出してゆけるものとはどのようなものなのか。

 「心」と言っても、それは漠然とした抽象的な言い方になるけれど、全てはここから発して作り出されてゆくのである。我々が人に意思を伝達する上での要として、深く人と理解し合うことのできる一番大切で存在価値のあるものである。善悪に関わらず、物事の全てを受け入れてしまう無限な器として反応し、有形無形な表情を(かも)し出す。その心掛けによっては自らを成長させ、自らを活かす源にもなる。これより概略的な歴史の流れから、何故今が心の時代と言われているのかに触れ、その価値について探ってゆきたいと思うのである。

 その遥か遠い我々の先祖は、この広大な自然の恵みを利用し、知恵を用いた集団生活に始まる。そして長く開拓と発展の時を経て、今日のこの地球全体が抱える環境問題へと移ってきたのである。その変化は人間の知恵を駆使し、現代科学の進歩によって反映され、経済が主流となった今日に至る。その生活が昨今においては、心に価値を置くよりもモノやカネに価値観を置きはじめることに繋がってきた。そして時代と共に人は生きるという共生の価値観を変え、生活の危機感もまた現代環境の中に移るようになってきたのである。

 我々の一般的な生活の中で、最高のステータスとして価値ある宝玉といえば、宝石であろうか。その宝玉という宝石を人に置き変えれば、心である。山に眠る石でも、磨けば鮮度を増して輝く宝石となるように、人の心も磨けば鮮度を増して値打のある宝玉として、輝きを増してくるものである。「天は2物を与えず」と、我々は真の努力を持ってのみ、2つの宝玉は1つとなって備わってくる。これからの若者たちが、この豊かさの中から未来に希望を創出して、輝く人生を切り開いてゆくことを目的に、これまで歩んできた人類史を参照に、昨今のモノ、カネの時代から心の時代へと移ってきた背景に着目をしてみたい。

 この日本は四面を海に囲まれた島国である。そんな我々の先祖はその遥か遠い昔より、集落を作って野山を開墾し、生活の共同体としてそれぞれが助け合って暮らしておった、農耕民族である。 その集落の共同生活とは外敵から身を守り、家族を養い合う為の知恵であり、安全の確保と共に人間同士としての必然的な本能でもあった。しかし、そんな家族同士の構想として作り上げていった集落も、徐々に分散化してゆき、やがて作られてゆく新たな集落との間で、他害視する敵対心が強く育ちはじめ、お互いの生活を脅かすような小競り合いが繰り広げられていった。そこに秘められてゆく敵愾心(てきがいしん)こそ、小さな心の争いから大きな野望への抗争へと展開してゆく要因となった、愚かさへの兆候でもあった。
 そしてそれはまた、人が生きる為の共存共栄と生存競争の絡んだ、新たな生活意識を生み出す挑発となり、新たな環境を生み出して展開してゆく、次世代への始まりともなっていったのである。

 そして何時の頃からか、この国は「日の本」と呼ばれるようになり、後に大和の国、出雲の国、武蔵の国などといった名称が各地に名付けられていった。やがて集落同士が統合されて藩となって武家社会が育ち、その武力行使による国盗り合戦へと発展していったのである。敗者は国を追われて領地を没収され、国家統一の国内抗争は江戸時代末期まで続いていった。同じ頃、世界でも同じように侵略戦争が繰り広げられており、他民族国家となった国家間抗争は徐々に拡大して領地を奪い合い、殺戮を繰り返しながら、海を渡って他国までも侵略する植民地化を進めていったのであり、世界が同様に激動に揺れ動いていった時世でもある。

 国家統一を目指した戦国の武将たる織田信長の時代には、異国との貿易も盛んに、多くの文化を吸収し、後の秀吉の時代には領土拡大に異例な朝鮮出兵を行っていった。その後、国家を平定した徳川家康は、オランダを除いて鎖国政策を()き、後の開国論者たちの手によって倒幕されるまでの間、国家統一への国内戦争は続いていった。明治から大正、昭和の時代を迎えるようになると、今度は国家の全財政を投入し、日本民族としての新たな国家間戦争へと手を拡げ、ついには世界を巻き込んだ、大戦争へと突入していったのである。

 古来より人間の史実に観る常々の抗争の原因は、人と人との小さな心の小競り合いを火種として、戦火を拡大しつつ、国内戦争からついには世界戦争へと広がっていったのである。
 (いくさ)の世の常に、勝てば官軍、負ければ賊軍とあるように、日本は軍国、帝国主義を掲げて侵略戦争へと突入し、富国強兵の神風旋風を起し、その国家精神を国民意識に植え付けながら、小さな巨人となって挑んでいった戦争は、軍運尽きて敗戦という惨めな結末を迎えるに至ったのである。
 これら神風日本を策謀した権力者の愛国精神によって、正義と忠誠を誓っていった国民の強攻は、大和魂、武士道、日の丸精神を
(かしら)に掲げ、敵国への敵対意識を善とし、国益を優先とした愚考な結末へと迎えいれていったのである。今も残る戦争の爪跡は、日本人だけの問題ではなく、世界各国に共通し、今も続く世界の抗争は老若男女、弱者を巻き込んで古来より今に漸進(ぜんしん)してきた人類の抗争史である。

 人はそれぞれの知恵を持って社会を進歩させながら、国と国、人との間に怨恨と敵対感情を深く刻みつけ、平和と希望と豊かな時代を作り上げては、その先の希望を淀みなく破滅させ、人心に尽くし難いほどの空虚な溝を拡げてきた。またその戦史の中には、多くの英雄としての人物像が描かれているが、その影で「一将功成りて万骨枯る」という、多くの罪もない人の命が奪われていったことも、忘れ難い事実である。人同士が常に繰り広げてきた抗争史は、多くの人たちがその時代を生きる人生の糧として、生と死を境に時世を恨み、他国や他人を憎む連鎖を生んできた人類最悪の事として挙げるところである。

 世界から見ればこの小さな日本が、世界を相手に掲げていった戦争とその爪跡の教訓から、我々は野望というものが、如何に多くの人を巻き込む過ちを生み出しかねないを心に刻み、平和を誓った国家の国民として、その力を国際社会への繁栄に注ぐ時代を迎えている。荒廃した家屋と山河だけを残すような偏った愛国精神こそ、世界に貧困や飢餓を拡大し、現在の科学の真意に伴わない偏りの妄想や盲信などからは、更なる奇病や難病を生み出し、何時しか我々は人類の自然限界を超えた人工科学により自滅の道を辿ることになるかも知れないと。小さな集落の抗争から、世界戦争に至った人間の史実。歴史は繰り返されるというように、今も国際情勢に相反する国家主義や、宗教思想一途の利害関係が存在し、敵対心と怨恨の溝は現代も人の心に根深く引き続けているのである。

 そして今も戦火の火種の絶えないこの世相からは、あらゆる可能性が混沌として渦巻き、より強い敵対感情が更に拡がってゆけば、世界を一瞬にして破壊してしまう、人類史上最悪のシナリオを描くことができる。大きな戦争も小さな抗争も表面化するまでには、基に深い怨恨が潜むもので、仕掛ける側、仕掛けられた側の、どちらが一方的に悪いとは言い切れない、敵対する人間同士の欲望と利害関係が絡んでいるのである。

 こうした抗争の史実から今日の世界情勢を、自らの心のフィルターを通して観た時、その延長線上には国際情勢の不条理が頂点に達し、最悪の事態を招いてゆく事も予測できるし、多くの人の知恵と努力によって、理想とは言えずとも社会が進歩発展し、押し並べて平和な未来像も描くこともできる。我々のような恵まれた時代に育ち、人生に危機感もなく、戦争も知らない世代こそ、この現実を生んできた史実を深く知って心に刻み、現代の豊かさの上に新たな未来を切り開いて行かなければならないと想う。我々1人1人の能力などには限度があり、1人の尽くせる事などとても小さなもの。現代の組織の崩壊から個の自立への時代を迎えた今、新たな社会環境を生み出すための、人との共生の道を見つけてゆかなければならない。そこに人との新たな生活活性の場を拡げ、環境の違った人たちとも共に分かち合えるような、福祉の場が見直されているのであり、多くの分野において人材の資質を高めてゆくことが求められている。

 そういった意味において、現代構築されつつあるNPO(特定非営利活動)やNGO(非政府組織)は、この国際化を目指す企業やベンチャービジネスと共に注目され、新たな時代性を生み出す存在として期待されている。このNPOといった存在は、1995年に起きた阪神淡路大震災に端を発し、その地域で被害者救済に携わった一般市民たちのボランティア活動によって、注目度が高まって行ったものである。今やそのNPO活動にも組織としての法人格が与えられ、多くの人たちがこの分野の事業を立ち上げるようになってきた。

 このNPOやNGO活動の分野・範囲は法人の設立趣旨によって様々で福祉、文化、教育、環境、まちづくり、人権擁護、平和の推進、国際協力の活動など、公益の増進に寄与することを目的とする市民活動団体である。政治活動や宗教活動などを目的とせず、市民と企業と行政とが協働して地域活性しながら、豊かな福祉環境を生み出してゆく。また発展途上国などへの支援や援助を通じて、相互の文化交流を高め合う建設的な事業としても注目され、時代性に沿った先駆的な民間事業としてその効果が期待されているものである。

 そんな中で私は、平成12年、理・美容界の垣根を越えた内閣府認証のNPO法人設立し、これまでの経験と技能を活かし、より広く地域社会との関わりを深める地域福祉を目的とした活動に人生の舵と取ってきた。それから8年、この事業を全国展開させてゆく中で、趣意を同じく賛同してきた者との世代間、価値観、地域環境、生活文化の差から意見や意識にも相違が生じて摩擦が起き、亀裂が生じるようになっていった。人にはそれぞれの希望や目的があり、腹を割って心を開いてみれば歩調を合わせて行ける時期もあれば、違うものには組織としての違和感を覚え、違えばそこに阻みも生じてくるのも現実、人間関係の難しさである。
 社会環境は刻々と変わってゆくけれど、日本の国民レベルの文化意識は今だ発展途上であり、理想する道のりに花咲かせる日は未だ遠いと想えるのが今日の現状で、「人生七転び八起き」とよく言ったもので、浮き沈みがあるのがこの世の常。
 この経験もまた人生の成長過程、通過点なのであろうと。テレビドラマ水戸黄門の主題歌・♬。「人生、楽ありゃ苦もあるさ♬・・・涙の後には虹が出る~♬・・歩いて~ゆくんだしっかりと、自分の道を踏みしめて・・・♬人生勇気が必要だ・・・くじけりゃ誰かが先に行く・・・♬後から来たのに追い越され、泣くのが嫌ならさあ歩け・・・」と、そんな歌詞がふと頭に浮かんでくる。

 時代を振り返れば昔も今、人も社会も留まることなく激しく移り変わりながら、今日あるこの飽食暖衣な平和な日本、この先どのような時代を迎えてゆくのか。国際化し多角化する情報が錯綜するこの日本の状勢に混迷し、心の拠り所を求めては戸惑い、虚しささえ拭いきれない殺伐とした世相の中にある。何時の時代も自らに頼れるものは、生活に必要な経済面、健康面、精神面での健全性にあり、これまでの人生経験から学び得た知識と知恵と能力をどう活かしてゆくか。現代社会の価値観の中にあっても古今東西、未来への何時の時代であっても精通する道徳観(心)を備えた生き方に意義がある。

 物が溢れて心が廃れると言われるように、現代は多様化した社会構造の中で人間関係にも難しい時代であるけれど、常に自分自身とどう向き合って生きてゆくか、人とどう向き合ってゆくか。その場凌ぎではなく、若い時からの一生の問題として将来に眼を向け、物心両面に価値ある豊かな社会生活を求めてゆくことを真剣に考えて行ってゆく目的がなければならないのが人生であると感じている。
続く:実行の時代
第2章:希望3【実行の時代】