の間に生きて 第1章:1項【生きる】
【生きる】=それは、過去、現在、未来を繋ぐ生命活動・・・生きる生きた証


【想起】
これまでの40年の人生を思い起こし、在りし日の経験や出来事、体験などから学び味わって来た事を想い出してみると、過ぎ去った事柄が幻影の如く、今の自分の影として蘇ってくる。その意識は私の頭上の空間に一時を留まらせながら、若き日の記憶に懐かしい面影を伴って顕われてくる。
現在って、何時の時も、過去と未来との時空を越えた中心のようであり、我々は今、この現実という環境の中に留まっているかのように思えるのである。

 しかし時は流れ、時の針は一秒、一刻と未来へと進んでいるし、この世界の空間とは「我々が生きた人生の証を刻んで行く、ノンフィクションの創作活動」の場である。
その人生の全体像に意識を巡らしながら、ここに想い起こされてくる事を頭に留め、この現実空間に耽ってみると、過去は空想になったし、未来もまた幻想に浮かぶ空想の中にあって、過去を想い起こす事も、未来を想い浮かべる事も同じように写し出す事ができる。
 そこには「我」という意識を張り巡らしている、自分だけの世界がある。
 時計の針を見ていると刻、一刻と時が過ぎているのに、我が意識には何も過ぎ去っている事を感じないし、また進んでいる事すら感じない現実だけがここに存在する。

今、仕事の合間をぬって音楽を聞き、タバコを吹かしながら、ガラス越しに路上を通る人の姿を眺めて見ると、いろいろな格好をした人達の様々な動きというものが眼に入ってくる。
 その外観の光景に人がまた一人歩いて来ると、風景もちょっぴり変るし、人それぞれの心の意識の違いさえ感じたりもするものである。
 そんな明るい日射しを帯びた細い路上を右から左へ、左から右へと様々な格好をした人が歩き、自転車に乗った人達も通り過ぎてゆく。貨物を押す人も、自動車を運転する人、早歩きも、遅歩きも全ては人。学生、主婦、サラリーマン、子供まで皆それぞれの生き方がある。

その春めく日射しの長閑(のどか)な風景を見つめながらゆったりと(たたず)んでいると、ふっと、自分がこの世の中の中心にある事に目覚めてくるものである。自然とこの時空の中に己が一体となって社会のあらゆる物事を想像し、心はこの大自然に同化して全てを包容する値であると感じたりする。
 己を中心に据えてみれば、この地球の前後左右、全ては均等であり、そこには我が一人の生きる人生を拒むものは何もないし、この一生という時間とその要素を与えて貰っている。

しかし我々は何時しか、生きる僅かな時間だけを残し、この一生という時間が過ぎてしまったことに気づく時がくる。そこで人生というものを振り返ってみた時に、この一生という時間を通して何を学び、何を得てきたのか、毅然たる答えの出せる人は少ないのである。

我々凡人たる者は凡人の儘に、若い時からの未熟さを脱し得ない儘、人生を繰り返し歩んで通り過ぎ、去らせてしまうものかもしれない。私などは、今ですら歳だけは一人前の世間様になっているけれど、そんな私の青春時代には、人生って「人に合わせてゆくものだ」と、ある人に言われた事があった。
その頃の私は、家族の中でも自己主張の強い存在であり、社会に無関心ながら世間とは「そのようなもの」かと素直に思っていた。そんな漠然とした人生を送りながらも、自分と人との生き方、考え方の違いを照らし合わせては、己の存在感というものを確かめていた時期である。

当時の私は、世間知らずの思春期で、無知に過ごす友人との遊びに生き甲斐を生み出していった。
そして、無事高校も卒業し、大学に通うようになったが、そこに将来の目的があった訳でもなく、朝から喫茶店で友人と暇を潰し、夜は麻雀に(ふけ)り、車でなければ通学さえも煩わしいと思う日々が卒業まで続いていった。
そんな人生でいてよく卒業できたものだと、卒業の思い出はなく、30を過ぎても卒業していない夢を暫し見ていたものである。
この頃は、世間の箸にも棒にも掛からない存在で、まして根っからの不良にもなりきれない、自由気儘な人生を過ごしていた頃であった。
大学などは卒業証書だけが目的で、他には大した目的がある訳でもない高校の延長みたいなものであったから、分厚い本は大学生らしさを装う積んどくだけの、お金の掛かった立派な粗大ゴミであった。

この学生時代に私が得た事と言えば、自由と精神的な解放感である。
夏には高校時代の友人達と伊豆の民家を丸ごと二ヶ月も借り切って、彼女とサーフボードを乗せて、東京との往復生活であった。
冬はスキーに明け暮れ、遊びだけが人生を先行してゆくまるっきしの(にわか)学生であった。
こんな有り様だったから大学を一年落第して親に叱られ、「今度、落第したら大学を辞めろ」と、月謝だけの掛かった不肖息子であった。

しかし私は、その5年間の大学生活の目的を卒業証書としながら、落第した年に、美容師の専門学校に夜学生として通い始めた。私は高校時代から両親には、大学には行かず手に職を付ける事を希望し、将来の目的をこの職業と定めていたからである。
私はこの大学生活の自由な時間を通し、いろいろなアルバイトをしてお金を貯め、学生の本分を除いては、やりたい放題の目的を叶えて来た。

 その高校時代からこの頃にかけて、よく世間から聞こえてくるのが学歴重視の社会の風潮である。
 私は勉強が嫌いで成績も良くなかったから、そのような人間社会の風潮を真っ向から嫌っていた者でありながらも、取り敢えずは頑強な父親の薦めもあり大学に進路を決め、社会の構造や世間体を横目に、今の若者達の走りを行く青春時代を過ごしてきた。
家庭にあっては、子供の人格などを認めようとしない、上から抑え付けるような口調の父親には、滅法反抗的であり、親子口論は常に絶えなく、親戚や他人から見ても、まるっきりでたらめな不良息子と捉えられていたようである。しかし、幾度となく仲裁に入ってくれる母の意見や忠告だけは、素直になって聞ける年頃でもあった。

そんな反抗期の中にあっての高校三年の時、初めて父の意見に耳を傾けたのは、「大学に進学しろ」と薦められた時である。父にしてみればこの社会がどういうものか、子供の将来の事も考えての事でもあったでもあろうけれど、勉強もしないで過ごしてきた青春時代にあっては、親に反発する事でしか自分の存在感を現せず、希望する大学に行けない実力に対し、生きてゆく将来への選択肢として、専門能力を身に付ける道を考えていた時でもある。

そんな威厳の強い父親の存在の有り難さに気付いたのは、親元を離れてアメリカに美容留学させて貰った時であった。
 その時、初めて人生というものを振り返り、家族間にあっての虚しさという感情を味わった。どれだけ自分の意志を通して自己主張を曲げず、親に反抗してきたものかと。そんな両親の心の内が遠くにあって見えてきた時である。
今ではその父も一筋の人生を駆け抜けて高齢を迎え、背負ってきた戦後の苦労の面影はないけれど、たくましかった父の体が一廻りも二廻りも小さくなった。しかしその眼光には、人生80年の男の度量と気性を忍ばせ、単刀直入な言葉の鋭さは今も健在である。

そんな父親とは性格の似た者親子と母は常に嘆いていたものであり、父の意思の(さや)に収まらない私の真っ向さを、母は自らの育て方の不敏(ふびん)と責めていたものである。
そんな私も今では二人の子供の親となり、父母の時代の子育てとは違うけれど、今日風な人生に答えの出せる子育てをと心掛けているつもりである。

 「親子は他人の始まり」というけれども、そんな幼い時からの事だよね、心の教育というものは。両親がそろって愛情をそそぐべき時期で、家庭に不和ないざこざを持ち込まず、親と子の一人一人の資質を通して人間性を高めあう。そんな頃に子供は、それぞれの性質から両親の心を掴み、家族を通して社会人としても一個の人格が育ち養われてゆく。

しかし今、時代が変れば教育環境もまた違ってきたけれど、今時は幼い頃からの英才教育も盛んになって、子供の健やかな成長や自立心、家庭の安らぎさえも親の偏狭な見識や溺愛によって、子供の心の根を(つぐ)んでしまっている家庭が少なくない。親も子も全ては初めての経験で、お互い学び合わなければならない事やそれなりな悩みも多いけれど、何時の時代でも教育は、親となるものの素行にある。
私の少年時代は、父は学校の先生と同じくらい怖い教育者であったから、親の邪魔にならないように友達と外で遊ぶ事が教育とされていたようなもので、所謂、ほっぽらかし状態であった。母もまた子供を構うよりも、商売家事手伝い全てが本業のようなものであったから、父権を主体とする家族の中には主従関係が存在していた。

けれど現代は生活も豊かになり、進歩した教育環境の中で、それらの意味合いや様相もまるっきり変ってしまった。

現代の我々は個々の才能や能力を昔の人より遥かに伸ばせてても、立派な人間としての人格も一緒に備わるかとなると、これもまた現代流なもので疑問である。そういった意味においてもまた、戦後の学歴社会で優秀と育った人間から、質の悪い人格者が多く輩出されている昨今を見ると、「教育」は学び育った時代環境よりも、家庭環境そのものの中に心の盲点がある。

何が自分に良いか、何が社会に悪いかはその時代性にもあり、教える側も教わる側も全て、この現代という時の流れの人として生きているのである。

【母の人生を通して育つもの】