(はざま)生きて:  生きる5
生きることは学ぶこと


私の母が生前に残したノートの中にこんな事が記されていた。
 権利という事。「男が男でなければならない生き方、女が女にしか出来ない生き方、それぞれをやり遂げて初めて同じ権利を得る事につながる」と。また、人生、結婚、一生とは「人と人とのめぐり逢いで始まり、めぐり逢いで決まる。誰とめぐり逢うか、誰とめぐり逢ったかで、その人の一生は大きく左右される」と。
 男と女、お互いに人生の目的が「幸せ」であるならば、それぞれが自立した本分に努め、生計を盛り立てて相手の事を思いやってゆく努力が大切である。現代は少子高齢化が進み、老々介護といった老夫婦2人だけの家庭も増え、我々世代には家族共働きも多くなり、若い世代ほど女性は強く、男性は優しくなって男女共に平等化してきた。
 また高齢者世代にも我々や若者達世代と同様に離婚が増え、現実の切実とした(わび)しさと共に新たな人生を求めて、煩わしい人間関係の拘束から解放された生活を望む人達も増えている。

 今、平等という文化社会の中で権利が育ち、現代は年齢に関わらず同等な立場からの主張や、個人的な生活意識への主張や解放感に芽生えた時代と言えるであろうか。「権利」「人生、結婚、一生」といった捉え方も時代と共にその価値観を変え、老いも若きも己の気持ちを抑制しないオープンな人生を求めるようになった。

 生きるという事は生涯を通しての学習であり、心の反映である。
 そんな一人の人間として老後を迎えつつあった母が、これからの人生をどのように生きてゆくべきかと記した自筆があるので紹介する。

「今、平成を迎えて」〔亀一たのしみ会・塚田 和子〕

「今、平成と年号が変わり、新しい年を迎え、しみじみ想う事は、昭和を生きて来た私達にとって、まさに老いを迎えつつあるという事と同時に、これからの老後を如何により良く生きるかを切実に肌で感じる日々である。日本は今や経済大国と呼ばれ、世界に君臨し、豊かさは他国をしのぐ勢いである。しかし、「物があふれて心が亡びる」と言われるように、犯罪は凶悪化し、無抵抗な者に対する非情さは、目にあまるものがある。人は今こそ、心と心の結びつきを大切にして行かなければならない大切な時ではないだろうか。

女性が自分の能力を活かし、多くの分野で活躍できる場を得た事は、誠に喜ばしい限りである。これからは、共働きがますます多くなる。同時に核家族が増え、家族のあり様も時代と共に変わりつつある。女性が寄り掛かって暮らす時代は終わり、自立するという意義は、若い人だけの問題ではなく、高齢化社会を迎えて、今や老人と言えども現役である。老後こそ又自立への努力に精進しなければならない大切な時である。人は年を取れば誰でも気力、体力ともに限界があり、その中で自分なりの人生を行き抜く為には、若い時の何倍もの努力を必要とする。しかし心は常に若く、健康でありたい。家に閉じこもる日々ではなく、沢山の友達と交わり、地域社会に奉仕し、若い人達とも交流を深め、よき日本の伝統と心の豊かさを、親から子へ、子から孫へと次代へつなぐかけ橋でありたい。自分の生き方に答えを出すのは、自分自身である。
『世の中で一番美しい事は、すべてのものに愛情をもつ事である』福沢 諭吉。」とあった。


 生きるという事は大変な事であるけれど、歳を重ねるごとにその日々の大切な人生を何時も前向きに、何か社会の為に己を活かしてゆこうとする人生こそ、人としての素晴らしさである。

母のノートには他にもいろいろと為になる格言から医療、教育、環境、世界の問題まで関心のあることを多く書き留めていた。父は母が他界した後、このノートを私の家内に形見として贈ってくれた。何よりも尊い尊敬する母が、心を込めて書き綴っていた自筆である。親から受けた心や生前の形見は、我が子を育てる為の私たちの私産であり、その子供たちには祖父母の生きてきた時代や心は見えずとも、何時かこのノートを読み、私達の影を通して祖父母の存在感を見取る時が来るであろうと。
 「親は子の鏡、子は親の鏡」と、家族が似た者親子として映し出される気性や、反面教師として映し出されてくる性格など、全ては子供たちの成長の中に反映されるところである。
 私も女房も両親を心の鏡として、その精神もまた子供たち兄妹が「良きも悪くも」受け継いでゆく事であろうと。

 吉田松陰は、「凡そ、人の子の賢きも、愚かなるも、善きも、(あし)きも、大てい、父母の教えによる事なり」と、親の生き方は子供の生き方の鏡となって反映されてゆくのである。
 新島 襄は、その「教育の生鵠(せいこう)を誤り、青年を偏僻(へんぺき)の模型中に入れるは国を禍いするものなり」と。この国家に禍をもたらすは、人を育てる側のモラルの低下にあり、社会を乱してゆく根本は、家庭環境からの心の教育にある。
 また現代は、考える教育から覚える教育へと変わって来て久しく、社会が一変した。我々は長年こういった教育を積み重ねて来て、思考回路が一辺倒に偏り、心の成長が妨げられて個人化し、それに伴って社会が多様に複雑化した今、人としての大切な生き方を見失いつつある。「今や、国家の道徳的基礎また危うからんとす。公平無私、天下国家の為に尽くす心を持たねばならぬ」と、(大隈 重信)訓がある。我々はまさに人生という生きざまを真剣に考えなければならない時であり、先人の教訓を心の糧として自らの心の修養に一目を置いて行かなければならない。


 母のノートに我々が見失い始めている、「つもり違い10カ条」というものが書かれていたので、共有すべき知的財産として参考にしてみる。

1.高いつもりで低いのは教養 2.低いつもりで高いのは気位 3.深いつもりで浅いのは知恵 4.浅いつもりで深いのは欲の皮 5.厚いつもりで薄いのは人情 6.薄いつもりで厚いのは面の皮 7.強いつもりで弱いのは根性 8.弱いつもりで強いのは我 9.多いつもりで少ないのは分別 10.少ないつもりで多いのは無駄 と。これらの事も訓戒として心に留め、自らの性格に溺れないように自照してゆきたいと思うのである。

また、中国の孔子は15才で学問を志し、30にして独立し、40にして迷わず、50にして天命を知ったという。15歳といえば昔では元服(げんぷく)と言って成人を示す年齢であり、現代の高校生である。昔も今も学問、教育の芯は人の道、心を学ぶ事である。
 しかし今、我々が学んでいるものと言えば、能力や技術の向上であり、大概が公共社会の生活に必要とされるものとでも言えるであろうか。こういった現代社会に学んでいる我々の知識や能力や技術で、教養が授かり、40にして迷わず50にして天命を知る、真の教育の基に近づけてゆけるのであろうかと。
 これからどのように人が進歩し、社会に豊かさをもたらしてゆくか。現代の50、60代、はたまた70代の人達から、もう一度人生、教育のやり直しが必要であると言われている所以がこういったところにあるのではないだろうか。
 
その孔子は60にして人の言が素直に聞かれ、70になって想う儘にふるまって道の徳を外れずに生きたと言う。
 こんな聖人君子に今時お目にかかれる事すら稀であるが、現代は若い時から心を働かせないから、60にして頑固になり、70にしてぼけて道の徳を外れて生きる。
 大半は自分それなりな一般知識、教養を備えるが、勝手に人の道を外れて悩み苦しみもがいているという現代である。若い頃から学んで育つ心の在り方も、長い人生経験を経て備わってくるもの。
 我々世代は親の世代より「苦労を美徳」とされてきた。現代はその苦労を努力に変えて能力を磨き、己を高めてゆく時代ではないだろうか。
 生きるということは、生きてきたという自らの人生に答えを出してゆく事であり、その一生をこの社会に証してゆく事に他ならないのである。
 誰も人生の先は見えないし、社会もどのように変わってゆくか判らないけれど、そんな人生の道しるべとして、人の道の道理を心掛けてゆくのである。
 また人として一番貧しいものは、「私欲に溺れた心のなき事」と、今の北朝鮮施策の事のようであり、国も社会も家庭もこの事によって滅び、禍いしてゆくのである。
 人の上に立つ人ほど努力し、人として正しく生きてゆけば、味わえる徳も幸せも人一倍あるものである。
 
 【生きる】とは、己の命を活かしてこそ、真に生きるということである。

 私もこれからの人生を精一杯そのような心掛けに生きる事を本分として、またここに記した事を己への自戒と教訓として締め括る。

第2章:【希望】

「天と地の間に生きて」
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