(はざま)生きて  【信仰と心1】
信仰と心

私は3人兄弟の次男として、東京の下町に生まれた。
それは私の生命の記憶にもなく、男子として生まれて来た事など知るよしもなかった。
私の命がこの肉体の中に宿るにも2人の両親があっての事であり、この広い地球に住む数10億の人口の中にあって、たった3人に定められた因果である。
私は自分という者も踏まえ、人間というものがどのような存在価値として生まれて来ているのかを宗教から学び、深くその信仰について思いを巡らしてきた。その結論に達した答えとは、個々の命(霊)は、生まれるに相応しい両親との内縁(因縁)と外縁(肉体的遺伝子)を引き継ぐ宿縁に産まれ、家族という血統が作られるということ。

 聖書や古事記に見る創世記の時から経て、神は同じ御霊(みたま)を人間の肉体に生命として宿し、その生命は時を越え、幾度となく他の肉体に輪廻転生して生まれ変わる。それからずっと経て来た現代のこの肉体も、生命を主として、今の両親との間に授かったものである。ここに生まれて宿る命、いわゆる生命は霊魂であり、我々はこの肉体を通して1個人として生きているのである。
 我々の生命はまたここに生まれ変わる為の因縁を、前世の行いの結果によって作り、その因果に相応しい境遇、今生の両親を媒体として生まれて来ている、というのが私の学んできた生理である。私がどのような前生からの因縁を持つ者であるかは、神のみぞ知る事で、後述にその謂われを載せる事にする。

そして見知らぬ男の人が私の父となり、女の人が母となって家系という家族構成がされて来た。しかし、その因縁という事を今に思うと、両親には因果で悩ましい現実と思われるかも知れないが、今生に定められたこの宿命もまた、恵まれた境遇である事を尊しとするところであり、この縁も変え難く有難い人生だと想うのである。

 「凡そ、人の子の賢きも、愚かなるも、善きも、悪きも、大てい、父母の教えによる事なり」と言われる。全てはこの両親の持つ愛情の基での事であり、今日までこうして無事に生きている事が何よりの恵みである。
 父と母は私が生まれた幼い頃より大層可愛がってくれたそうで、親心の庇護の基で私は我が儘三昧に育ち、好き勝手を許してくれて来たようである。おしむらくは、世間の厳しさや冷たさを叩き込まなかった親の愛情が、今の私の性格や世間への甘さに養われてきているかのようである。

私が生まれた時には、既に1人の男子が先に生れていたようで、その男子との縁も、どのようなものかは知るよしもないが、気が付いた時には目の前にいた兄であった。父母は私が生まれた時、祖父(文治)と父(義晴)の一文字ずつを取って、「文晴」と命名した。その時から私に相応しいのか、相応しくないのか、その運命の名と共にこれまで歩んできた人生である。(話は余談になるが、私が30歳も過ぎたある日の時、実印を商いとする商売人が私の職場に訪れて来た。私の名前を鑑定し、画数が悪いから運勢を良くする為に名前を変更し、一生ものだから象牙の実印を作りませんか」と言ってきた事があった。)親が名付けてくれた名前を、私の意思で実印を売る商売人の儘に変更する訳もなく、聖書に言う、エバにいた邪悪な蛇のように、人の心理を突いて(そそのか)す商魂のようであった。

私が生まれてから2年が経ち、眼の前にはまた1人見知らぬ子が生まれて来たようであり、何時の日か気づいた時には一緒に遊んでいたという具合で、兄がいて弟ができ、男家系の5人家族となっていた。私達は戦争を知らない世代に生まれ、団塊の世代といわれた頃に育った兄弟である。幼少の頃には近所に戦前の面影を残す長屋があり、貨物列車の通る土手があった。今もまだその貨物列車が通る土手は残っているが、当時のその頃はまだ風が吹くと砂ぼこりが舞い、草に混じって土の匂いの漂う時代であった。

私の両親は戦後、祖父の営んでいた風呂屋が火事で全焼し、5人兄弟の次男であった父は再建復興の為に後を継ぎ、その跡地に米屋、床屋、中華そば屋と、食うに困らないように商売を増やしていった。当時の両親の暮らしは戦後の貧しい時代からの始まりで、父方家族の中に嫁いだ母は随分と苦労もしたようで、生活を支える為に、備えてきた和服なども質屋に入れるほど、お金の工面にも四苦八苦した事もあったようである。父は中央大学の法学部を卒業しながら商売人を志し、継ぎ接ぎの服を着て育った当時の赤っ茶けた家族写真には、時代の素朴さを感じさせる生活の温もりが写っている。私が生れ育った時代を微かに覚えているのは、この頃からの事である。下町情緒のある隣人同士の家族関係や親子同士の付き合い、そんな下町風情が人の心を運んでくるような時代であった。そんな我が家には神棚が祭られ、父は地元の氏子総代として仕え、家系は仏壇の中央に阿弥陀如来を奉る浄土真宗で、日本文化に馴染んだ神仏習合の信仰である。

 私も今では家庭を持ち、見かけだけは一人前な2人の子供の父親となっているが、我々夫婦のような8歳も開きのある世代感覚の者同士となると、生活感や価値観の違いから、何時しかお互いを傷つけ合う口論も絶えないのである。そんな感情の高ぶりに長男が仲裁に入ったり、長女は幼くも女房を(かば)って大きな涙を流し、私を刹那に叱るのである。
 そんなお互いの人間性を通し、信仰は我々家族の共通の心の糧となって、一家を支え合う中枢になっている。夫婦(たが)いながらも人生に幸せを求めることは一つで、心の奥では思いやりを持ち、この子たちを授かる時には、「夫婦によい縁の子が授かる事」を神様に願ったものである。そして願いに叶ったというか、授けて頂いた縁が今の長男であり長女である。であるから、この子供らは私達にとって神様に願って授けて頂いた何にも勝る宝物なのである。

私は、長男が生まれた年に自営を始めた。社会景気は全盛期を迎えていた時で、我々夫婦の生活は共働き、子供と借金を抱えての出発であった。お互いが独自の仕事を持つ中で、2人して帰宅の遅くなる事はしばしばであった。そういった時にはベビーシッターを頼んだり、女房の両親に田舎から出て来てもらったりと、保育園の送迎から食事まで、子供の成長を中心とした8年間であった。

長男が7歳になった頃、「兄弟が欲しい」とせがむようになり、2人目の子供の事で、私達が以前より信仰の師として師事していた、先生の所へ女房が相談に行った事がある。その先生方には長年、人生や信仰について教示して頂き、毎年御嶽山の夏山山岳修行や高野山参拝にと同行させて頂くこと長く、神通力という格別な力を備えた方たちの事である。

女房は当時、まだまだ愚生者(今でも大して変わりはしないかもしれないが)私との結婚生活に不安を募らせていたようである。長男との狭間に立って2児の子を設ける事に悩み、師の力に頼って伺ってみる事にしたようである。その時に一言「年内に身ごもれ」と教えられたとのことで、その一言によって私との悩みも解消し、2児の子の誕生に家族の良い縁が授かる事を願ったものである。
 その後、女房が身ごもったある祭りの日のこと、師が女房を見て「良い子が授かるよ」と喜んでくれた。以前、長男を身ごもった時にも「丈夫な子が授かるからね」と教えてくれたことがあった。長男の時のその言葉の中には強く「男の子」と言う含みの口調があり、長女の時には「女の子」を示唆する優しい口調の含みがあった。長男の名付けに幾つかの名前を用意してお伺いした時、「晴彦」という名が良いという事で、その名を命名。長女の時も長男同様、安産の腹帯を水天宮から買ってきて、加持付けをして頂き、健康で丈夫な子を生む為の方法を教えて頂いた。女房と長男は、長女が生まれてくる以前から既に女の子の名前を考え、大きなお腹に話し掛けながら、この子の生まれて来ることを楽しみにしていた。

そして、予定通りの長女が生まれ、名付け親として師より夫婦一文字ずつの名を取って「晴深」と命名して頂いた。日本では昔から、親の一文字を子に授けて家族の縁を深めるという由来があり、私達親子にとっても、末永くよい縁のある子であるようにあやかっての名付けである。戦後はそういう由来も薄らぎ、現代では流行(はやり)の名とか、時代性なのか意味不明な名を付ける夫婦もあり、この国際化と共に家族の縁も遠のいてゆくような感じがするのは、私だけの思い過ごしであろうか。
 「人」という字の由来も独りと独りの支え合いによって、人としての自立が意味されるように、日本でもその昔から神仏に祈願祈祷することによって、人というものを支えてゆく心の文化がある。それは信仰心を高め、精進してゆく事によって授かる加持力というものであろう。神仏への信仰を深めることによって、親子の絆を一層強めてゆく愛情もまた一入(ひとしお)な限りで、我々家族の縁にその加持の力を加えて頂いた師には、深く感謝するところである。夫婦でも育った環境の違うもの同士が、1つ屋根の下で生活しながら同じ信仰を持ち、人生一生の目的を共に心に定めてゆける信仰に縁を深められた事は、何にも勝る掛け替えのない絆である。

〔母の急逝を通して

家族にも一人一人それぞれの運命があるように、何時の日か夫婦、親子の間にも愛別離苦という定めの時がくる。「愛する人との別れ」、それは我々の人生の8つの苦しみの内の1つであると言われる。我々は心の中で何時かその日が来る事を知りながら、それでも親が健康である時には、不満を募らせて父母を憎み、恨み、自らの人生が思うようにならない事の全てを親の所為にしてきた事もある。親の気持ちや苦労の立場も知らぬまま人生は流れ、結婚して新たな家族を作り、親がこの世を去って初めて、親の温もりが自らにとってどれほど尊い存在であったか。親の生前を振り返って我が身の人生にダブらせながら、人の儚くも短い一生というものをまざと考えさせられる。

私と母とのその日は突然にやってきた。死因が動脈瘤破裂という突然のものであったから、私は母の死に目には逢っていない。それは夜中の突如のことで、母が寝付こうとした深夜の出来事である。胸が「苦しい」という声に父が駆け寄り、病院に電話を入れ、兄を呼びに行った時には、既に鼓動が絶えていたという。兄からの急報を受けて寝静まった子供達を置いて急遽、女房と病院に駆けつけた時には既に亡く、母のベッドに横たわる姿を見て、呆気に取られるとはこういう事である。私には悲しいなどというそんな動揺もなく、その状況を受け入れる暇もない儘に、母との最後の日を迎えた。

その後日、母が生前に残していった手紙がでて来た。そこには、家族として一番辛かった時の事が記録されていた。母はこの手紙を何時の日か、私たちに読ませるつもりで書き残していったのであろう。その出来事は我々兄弟が少年の頃のことであった。

父が45歳の時に受けた手術中の胃腸の中から腫瘍が見つかり、医師がその腫瘍を摘出するかどうかの判断を母に求め、その摘出には生命に保証は出来ない事も知らされたという。父の死は母にとって子供たちを抱えての家族の岐路であり、母と気心の通い合っていた父方の妹夫婦に支えられながら、摘出手術をして頂く事を決断したという。母は誰にも頼れぬ自らの心境を神に縋り、我々が寝静まってから1人床の中で一晩中泣き続けていた事が書き残されていた。(簡略)。母はその手紙の中で父方家族の3人姉妹の事に触れ、家族として兄妹としての3人それぞれの愛情というものの有り方に、友情と信頼と無念さを書き記していた。

母は滅多に他人の家の事情を、我々子供たちにも言わない性格であった。そんな母でも、その無念さを書き残していったという事は、よっぽどその時の悔しさに耐えられなかったのだと、私には思えるのである。何時の時代も親子や兄弟は他人の始まりと、父方家族の中に1人嫁いでいった母にとっても、大切にして行かなければならない、これからの人生というものはある。それを家族としての父方姉妹よりも、近所の人達との交友に心の繋がりを求めて行った事を今に思えば、母の背に家族として大切にしてゆかなければならない家庭の中に、どこか悔しさを感じていたのであろうと。

母は町内会の活動を通して、若手の人達の面倒みも良かったようで、交友は広く、亡くなった翌日には若手の人達と共に、親睦旅行に出掛ける予定であったようである。母の死は運が良いというのか、悪いというのか、前日までの健康な姿も、1日間違えれば大変な騒ぎとなってしまったところである。母は常日頃から几帳面な綺麗好きで、髪を染めて死に支度を整えていたかのように、突如としてこの世を去ってしまった。その後の葬儀には沢山の人達が駆けつけて惜しまれて逝き、ある意味では果報な人生であった故、母が人生に刻んでいったその一生とは、私のこれからの人生にも深い意義を示していってくれた。母には生前に人一倍の心配と親不孝を掛けた分、都合の良い話であるけれど、これからの私の人生に刻んでの恩返しである。

私も今日、親になって思う事は、夫婦は苦労してでも孫の代まで立派に教育できるような子育てをしてゆく事が、親としての1つの生き甲斐にすべきと思うのである。今の子供達が1人前の親として家族を持った時、その家族が幸せになってくれる事が親の本望というものではないかと、3代に渡る家系の徳というものを思うのである。それは私の人生にとっても悔いを残さぬよう、母には生前以上に幸せになって貰わなければならないのである。人の心理というものは妙な認識をしてゆくもので、母が亡くなってからというもの、これまで以上に身近に感じるし、思えば常に届く存在感になってしまったのである。子供達にも人の命と信仰の大切さを伝えてゆくために、母を偲んではお大師様の御姿に向かって供養に勤め、阿弥陀様には高く天昇への導きを願っている。

そんな私を影から支えていてくれているのが、女房の厚い信仰心である。その女房の実家も日本神道の信仰を継ぐ家柄であり、小学校の元校長を父とする家系で今も健在であるが、両家とも既に母親は他界している。その女房が子供達を連れて高野山のお大師様の基へ参拝し、西門院の住職によって母の永代供養を頼み、師よりお大師様の仏前にて、お盆供養やお彼岸供養を営んで頂いてきた。そんな女房との信仰の心によって、今の私は支えられているのである。

そして3年、5年と母への去就や悲しみも時の流れと共に拭い去り、過去の面影と記憶だけを残して、またこの日常生活へと日々を戻している。忘却してゆく事もまた、新たな人生を生みだしてゆく為の心の成長、人生の修養というものであろう。花が一輪この世に咲いて、その生の存在を常に美しく保ってゆく事ができないように、人の生も何時しか無常の盛から衰へと辿ってゆく。したがって我々はこの世に生まれた人生の花道の中に、人としての命(心)の花をきれいに咲かせてゆく事が大切である。
 何故、人は生きるのか、私は、その生きるという人生の目的を信仰から学び、その必要性を感性や感覚、直感というものの中に意識するようになった。
 私の信仰の観点から、見えない神仏の存在やその生命の領域を感得してゆくと、母の命の存在もその中にあり、改めて人が人生に咲かせてゆく花の命は短く、身体はこの世の一時のかげろうのように目覚めてくるのである。

その我々の命には個々に特性があり、生まれた環境も体質も違い平等とは言い難いものである。その違う者同士が同じ生命を持つ人間同士として平等観に立てるのは、信仰による神仏の基でしかないのである。その我々ですら自らが選んで今の両親の基に生まれて来た訳でもなく、親が我が子にと選ばれて生まれて来た訳でもない。桜の花は桜の木に、バラの花はバラの木に咲くように、その両親の基に生まれてくる命は、親子となるに相応しい因縁によるものである。であるから我々は今の両親より授かったこの命を尊しと受け止め、今生の親子の血縁を通して精一杯生きて、全ての恩に報いて行かなければならないのである。

その我とは、この世の生命集団の中で一体の肉体という船に乗り、前生からの魂(因縁)を背負った心の旅をしているのである。そしてその行跡が来世に繋がる因縁となり、今生の家庭内にも因果として影響を及ぼしてゆくのである。今、日本人の平均寿命が伸びたとは言え、それは長いものか、短いものか、良いものか悪いものか、全ては生きた人生の中身の問題である。遅かれ早かれ生きとし生ける者は、その人生の終焉に一枚の白い衣を纏い、この世の花に飾られて火葬され、僅かな白骨と生前の行跡をこの世に残して生命はこの肉体を離れる。

そんな現実という中にあって中国の民間信仰に老子、荘子の道教があり、中国人のこんな逸話がある。「親が徳と善を積む人生を心掛けて生きてゆく。その子供達にも人生の道徳を教え、徳を積む人生を心掛けさせてゆく。そしてその孫や次世代にと道徳を積み重ねて生きてゆくと、何時かその家系に高徳のある立派な子孫が授かる」というものである。
現代の中国人は別としても古来の中国の教えには、現代人の自我欲望的な物質社会によって忘れられた、人の道の根本精神が伝えられて来た。我々がこの現代社会に病む所以も、この人としての道徳精神の欠落であり、所思諸々の風紀を含んで、自らがこの道に外れている事にすら気づいていないのである。我々は人の遥かなる世代の、遠い過去や遥かなる未知の時代までを望んで見れば、この世の我が人生などは一時の楽しみを望んでいるにしか過ぎないのである。
我々のような生あるものはい、何時か老いて死す諸行無常の人生の旅である。仏国浄土を目指した三蔵法師ではないが、そこに迷う衆生の救済にと仏教を求めるなどという事は、私の言える事ではないが、せめて人の道として報徳と人情を心掛けてゆきたいものである。人の人生の欲するところを見れば千差万別であり、この世の一寸先の現実すら儘ならない迷いの意識が織りなす人間の世界である。

その人間の1人として神仏に最も近い最高の天性を持って生まれた釈尊は2400年も前から、キリストは2000年、弘法大師は1200年も前からこの宇宙を創造した神仏の真実在とその真理を説き、信仰の大切さを伝えて来た。現代の我々は自己を中心とした忘念と欲望の末法の時代(仏法が衰えて悟る事の出来ない時代)を生きている。我々の持つ向上心の世界観とは、未来への進歩、発展を目指すハイテク技術を生み出し、通信情報化社会を張り巡らして、宇宙開発や遠隔操作、クローン技術や医療技術など多くの科学を作り上げてきた。
しかし神聖なる信仰心が廃れ、この進歩と発展においても、人の心をすまでにはいたらないようである。宇宙の果てから見れば素粒子の如く微生な人間の存在が、ここまで優れた知恵と能力を駆使して文明文化を生みだし続けた事は、末恐ろしくも素晴らしい限りである。しかし、その反面では人の心が1つに収攬(しゅうらん)される事なく、さらに人との意識差や価値観を拡げ無差別すら生じさせてきた。現代に繋がって来たこの進歩と発展は、生きるという人の環境を変えて来たし、また人類生命に関わる大きな問題すらクローズアップされても来た。


続く:人との合縁と信仰との奇縁を通して

第1章:【生きる】 第2章:【希望】