(はざま)生きて

第2章:【希望】
希望とは、未来を照らす心の明かり


 この宇宙は、途轍(とてつ)もなく広い無限の空間である。
 この空間とは東西南北の四方と上下、そして過去から現在を通り、未来へと無際限に拡がり、何時果てるともない時空の中に在る世界である。この無限の空間の中を光り輝く恒星が無数に点在し、一つの天体集団となって構成されているものもあれば、只一つの星としてこの宇宙の中に回り続けているものもある。この神秘で無限な存在は御神体とも呼ばれ、この宇宙の全てを内に包み込み、森羅万象を生み出す恵みの源である。また我々、個の人間にもその神聖なる生命が宿り、この宇宙との一元化をなす心という小宇宙の存在がある。その心の正体とは本来、「神」と「明」との基の主としてこの肉体に宿り、無限の宇宙との神聖な一体化として繋がりを持つものである。

 この地球という生きた惑星も元々は太陽から分離して出来上がったものと言われ、生命を育む母なる大地として、既に数十億年という遥遠な歳月を経て現在に至っている。地球の底から起こるマグマや自然現象はこの星、地球の生きている証左であると。我々はこの宇宙に浮かぶ星を眺めては、この世の世界を想像し、我が身を振り返っては、この大地に生きる1人の人間としての存在を確かめている。

かの太陽もこの宇宙の1つの天体として、この地球に恵みを与えて万物を育み、全ての生命を生む源の親として共に生きている事から、希望の星として象徴されている。その燦々たる光明は、この天地を照らして温め、我々の心を輝かせ、生きるもの全ての活力を養う無償の育みを与えている。この太陽が地球の昼を司り、月は晧晧と夜を司り、この神秘な闇夜を照らしながら我々の心を癒す。また、この宇宙に点在する1つ1つの星は、我々1人1人の生命を象徴しているかの如くに輝きを放っている。この無限なる宇宙神秘の存在を御神体とし、太陽、月、地球にも、また人にも神が宿るというこの日本は多神教の国である。

 この日本の夜空にも夏が来ると、帯状に連なる銀河が現れ、古人はその星々の大群を天の川と名付け、男と女のロマンを描いた。我々はそれらの星や流れ星を眺め、願いを込めて祈った事もまた幼い頃からの人生ロマンである。
 この宇宙に浮かぶ、あの太陽や月、そして星やこの地球といった物体は、果たして重いものなのか軽いものなのか。この宇宙の存在は計り知れなく不可思議である。

しかし、人は古来からこの宇宙に目を向けて、この神秘なる未知の宇宙と向かい合い、心を絞り知恵と想像力を働かせながら、この大自然との因果関係を解き明かして多くの発見や発明を生んで来た。またこの地球にも、未だ我々の知らない未開な大自然が残り、今も昔ながらの風習や伝統を保ちながら暮らす民族もあり、中世に栄えた文明文化を色濃く残す国、近代国家の建設、未来国家への構築を目指す国もある。
そしてこれからも、それぞれの国や民族がこの地球の大地と海に囲まれた国の風土や土壌を活かし、独自の文明と文化を作り上げながら子孫へと繋いでゆくのである。

 人類の歴史は世紀を越えて様々な人間模様を織りなしているし、現代の生活にも
()えて、人生に(さ)したる目的も希望も持てない若者が増え、一夏一夏の蝉ではないが日々刹那的に過ぎ去らせてゆく人も多い、この日本のような国もまたある。

 我々は今、既にこれまでの社会構造に頼れる時代は終わり、これからもこの国家と共にあって自立し、共存と共栄への新たな時代創出への道を歩み続けてゆくことになるが、我々はこの国を母国として愛し、人と共生して生きる生活に希望を生み出してゆく限り、その誰もが幸せを得る権利を失う事はないのである。

 この希望というテーマは、これからの若者たちが人生にそれぞれの悩みを抱える中で、この社会に何を望み、何を求め、また個の人生としてどう生きるべきか。現代の若者たちの自発性に一条の参考となり、ある人には、人生に迷う失望感から一筋の希望が生まれる事を期待し、またある人には、この豊かな物質的文化に沈む無気力さから目覚め、生きる人生に意義のある輝く一光の望みが生み出されてゆく事を目的とするものである。

 そういった意味において現代は、国際化と共に視野が拡がり、新たな時代創出への「知恵の時代」「心の時代」に象徴される実践「実行の時代」を迎えている。

 「知恵」は、生活に豊かさをもたらし、自らの神聖な「心」との一体化によって、新たな希望を生みだす原動力となる。

 この「知恵」、「心」、「実行」という3つのテーマは本来、一体化した実践の結びつきで活かされてゆくもので、これからの21世紀を担う若者達の未来創出への一助になればと思うのである。

〔知恵の時代〕

 不況が長引くここ十数年来の社会が一つの過渡期を迎える前、この日本からは押し並べて貧富の差がなくなり、誰もが中流意識の生活を味わえるようになった。
 それよりも以前のバブル成長期には、国民大半の生活に豊かさと楽しみが増し、就職にも事欠かせない雇用事情は待遇も良くなり、雇う側は繁栄の坂を登り、雇われる側は金の卵と呼ばれたほど引く手あまたな時であった。盛況に酔いしれたこの社会はこぞって順境で、人は余暇を謳歌し、勤め先では一つの歯車として与えられた業務をこなしているだけで、大した不満もない順調さが続いていた。この国の将来の事や自らの生活設計にも大した危機感もなく、転職などは一つのステータスを演じる生活観のようでもあったし、それぞれの人生がこの儘ずっと順調にゆくかのように思えた。

 しかし、この盛況に酔いしれていた人間の欲望の皮が、社会の光と影から剥がれてゆくように、バブル経済が弾けて景気は失速し、これまでの社会構造から未来を望む構想すら失われていった。従来の終身雇用制が企業システムから揺らぎ始め、若い世代には徐々に正職に就かない、臨時的職を求めるフリーターと言うものが増えていった。こういった時代背景の中で21世紀を支えて来た従来の社会システムが崩れ、新世代の若者達の間では、未来指向というよりも現代指向の人生観というものが表面化してきた。所謂、自己中心的とも心離れした世代とも言われる、人間関係にあっさりした世代感覚が表面化してきたのである。

 そんな時代を生きて来た世代も既に40代の声を聞き、今では家族を持って暮らす中年期を迎えている。
 それから10余年というもの、ハイテクノロジーを駆使した情報化社会INS(高度成長、通信システム)などの普及に伴い、現代の若者たちの生活意識は、これまでの世相意識からも一変してきた。そして時代の流れは、社会不況の中でも近代化への波は市場経済を優先されながら、企業経営の合理化を図るリストラが始まり、コンピューターを使いこなせない中高年サラリーマンは窓際族とも呼ばれて、自殺者すら生みだしてきたのである。
 これからはより多様化した価値観の社会の中で、生活に貧富の差が生じてくる時代とも言われる。終身雇用制や年功序列が揺らぎ始めた今、社会はこれからの新たな構造を模索しながらの発展を目指している。人それぞれの持つ経験や人間性、そして新たな時代を担う専門技術の知識や能力など、資格や技能を中心に新たな社会活力を生み出してゆこうとしている時代。知恵の時代とは、こういった時代性を背景に不透明な未来を展望し、自らの人生に目的を持ってこれからの生活広範を豊かに生み出してゆく事にある。

 この現代社会の実像(現実)と虚像(仮想)とが織り成す様々な生活空間の中で、その変化と動向を洞察、分析する知慮(思考)や情報の収集、そして、普遍的なものとを分別する知恵(先見力)は大切な要素であろう。

 しかし、「光陰矢の如く」と、人生80年とは僅か29、200日の生活に過ぎないのである。
 ましてや人生3分の1を睡眠時間とすれば、僅か19,500日足らずの時間の中に短縮されてしまう。この時間を我々は何に用いるのか。この与えられた社会の空間に、どのような人生を求め描いてゆくのか。この空間と時間の中を時代というものが流れ、その一世一代の人生の味をどのように活かし、捉え、現してゆくのか、自らが作り出せる人生には限りがあり、限られる。
 「知恵」は、その一生の人生観を深め、創造力を高めて自らを刺激し、有形無形な事柄を創出する唯一の能力となる。またその知恵の活用と実践ほど、人生に価値と意義を生み出し、自らを成長させるものだからである。
 ここに生きる人生の価値としてこの社会に何を作りだし、そこにどれだけの意義を生み出す人生を築いてゆくのか。それは、人や社会から与えられるものではなく、知恵を用いて先ずは自分の人生の活かし方を考えて、人や社会に与えてゆく事を求めてゆくものでなければならない。

 この現代は益々外食産業が盛んになり、安い高いの価値に関わらず、
手間暇(てまひま)の掛からない食事を美食もどきとする、世代感覚の若者たちが多くなったと言われる。食事というものがエサとなり、おふくろの味が(ふくろ)の味に変わって、それぞれが別々な物を取り、自分で作って食べるのではなく、他人が作って与える物を食べるという時代になった。その家庭料理ともなれば簡単に作れるレトルト食品で、栄養はサプリメント。
自然食志向もダイエットで、食文化に乏しくなったというのか、多くが加工の時代に変わりつつある。

 益々もって現代生活の知恵は簡素化されて合理化し、自然を得るにも健康を維持するにも、また恋をするにも愛ほど金の掛かる時代である。アメリカともなると結婚は女性がビジネス化する程の先進国で、金持ちとの離婚などは人生一つの成功例を意味するほどである。また若い世代ほど子育て拒否症候群とやらが拡がって久しい国でもある。ここ日本でも幸せの為の離婚は増え、誠もって男女の仲は狐と狸の化かし合いの如く、自己愛に欲の絡んだ利益生活を求める駆け引きのようである。
これからどういう社会が育って行くのか。真面目な人ほど損をし、正直者ほど馬鹿を見、善人ほどこの社会の潮流を憂い忍び、現代の文明に封印されがちな人間関係の奥底に潜む苦労は耐え難く、益々もって避け難い御時世である。

 我々はこういった現代社会に豊かさを求めれば求めるほど、生活意欲が心のバリアを抜けて物質化し、対人関係に利害得失が強く絡み合ってビジネス化してゆく。今や人も国も企業も、その豊かさを創出する為のサバイバルな時代と言え、この社会構造の中は私利私欲化し、弱体化した精神は個人化し、その生活は短絡的とも享楽的な傾向にある。しかも今日の我々の生活意識には、この社会に危機感もなく、何か衝撃的な惨事でも起こらない限りは、人の心は目覚める事もなく、冷めた生活に慣れきっているのではないかと思えるのである。

 現代のこの社会性にしろ、若者たちの食文化にしろ、豊かさが故のこの社会の光と影は、我々個々の環境にとっても進歩なのか衰退なのか。ハエ一匹殺すにも殺虫剤である。我々生活の中には、効率を高めるために薬剤が使用され、化合、加工して作り出す農薬、食品添加物などがあり、石油から作るペットボトルなどは利便性から大半の物が使用されるが、長期保存には石油が混じり合ってくる。進歩は人間の知恵による産物であり、その恩恵に多くの人達が救われ、物質文化の進歩は経済を活性し、生活に豊かさを生み出して来たが、また人や環境にも害を生み出し、人の使い方次第では利にも害にもなるのである。

 現代のこの知恵の時代とは、様々に生きる人の価値観の社会にあって、多くの情報知識を得た今、改めて人生というこの現実を見据え、見つめ直す1つの転換期であると言えるのではないだろか。
 知恵とは、単なる知識ではなく理解力、新たな構想や発想を生み出す知的能力である。「物事の筋道が判り、うまく処理してゆく能力」であり、自らの人生を活かして新たに物事を作り上げたり、成し遂げる事のできる力となるものが知恵である。
シューベルトは「人生は旅に似ている。特にそれぞれが厳しい冬に向かった時、人はそれに立ち向かう事を恐れて立ち止まり、つまづくけれど、それを乗り越えない限り、春は決して訪れないのである。」と。知恵こそ、人が努力して得られる天性の才覚であると思うのである。その潜在的天分を天性に向けて心の扉を開いてゆく勇気にこそ、天はその努力に比する人生の意義を教え、この世に成長した人としての完成へと導くであろうと。

(続く)第2章:希望【心の時代】
 
 
第1章:生きる 第3章:信仰と心