(はざま)生きて  生きる3
【人生の成熟期】

 私が美容留学を目指すきっかけとなったのには、もう一つの動機がある
 高校時代から一緒であった友人が同じ大学へと進学したものの、1年で大学を中退し、靴の勉強にとイギリス留学を目指して行った
 彼が日本を発って2年が経ち、一時帰国との知らせを聞いて、羽田空港(当時の国際空港)に出迎えにいった時の印象は強かった
 ドイツのルフトハンザ航空機が上空の彼方から小さく姿を現し、空港に大きな翼を広げながら着陸して来た時の感動が、私に夢を運んで来た
 舞い降りた機体に書かれていたルフトハンザと言うドイツ文字、その尾翼から線を描く様に引いて来た未知の世界
 その時の印象は感激的であった
 彼は我々の知らない国を経験して帰って来たのだという印象が、私に更なる夢を膨らませた
 当時、私がまだ美容師の見習いの頃の事で、彼がイギリスの専門誌に取り上げられた日本の下駄文化の紹介記事を持って帰ってきた
 それは私にとって衝撃的であったし、偉業とも思えるほどの出来事であった

彼が2,3週間、日本に帰国し、再びイギリスに戻ってからは、美容留学の情報を送ってもらう手紙を出し始めた
 それから間もなくして、イギリスのある美容室で「私を留学生として受け入れてくれる所が見つかった」と言う手紙が返って来た
 夢を膨らませながら彼と手紙での遣り取りを続けていたのも束の間のこと
 突如、相手の事情が変わってしまったと手紙が送られて来た。ガツンと胸と頭を後ろから叩かれたようなショックであった
 既に私の気持ちは外国に飛んでいたから諦める訳にもいかず、他の渡航先を探し始めた
 そして見つけたのがアメリカ留学である
 山野のビューティーカレッジがカルフォルニアにある事を知り、すぐに留学手続きをし、領事館から1年間滞在の出国ビザを貰って夢と希望を抱いてアメリカを志した

出国当日は友人達に見送られて一人ゲートを潜り、タラップを進みながら、自らに渡米の意思のある事を心で再確認しつつ、理想のアメリカを目指し羽田空港を飛び立って行った
 機内の上空から煌々と拡がる東京の夜景を見下ろしながら、「今度、日本に帰って来る時には自分を変えて来る」と心に決めて旅立った
 日付変更線を越え、ハワイを経由して太平洋を(また)ぎ、機体が雲間を降下する機窓から、アメリカ大陸の広大な光景が見えて来た時には、「来た」と感無量な胸の弾みがあった
 太陽が燦々(さんさん)と照らす大陸を眺めつつ、ロサンゼルス空港の大地にズシッと車輪が着いた時の衝撃が、何とも言えぬ大きな勇気を与え、我先陣の想いが走った
 そして空港からタクシーを拾い、ビューティーカレッジに向かってフリーウェイを走行中に、日本車の走る姿を目にした時には、既にアメリカに進出していた企業の姿が、日本人としての誇りと感動をさらに沸き上がらせてくれた

ところが、着いた当日が日曜日の夕方ということもあって、カレッジは休校。大きなトランクを二つ引きずりながら、通りすがりの老夫婦に尋ねたら、カレッジの周囲を見回ってくれた
 電気が消えてカギが掛かっており、私がアジア人と判ってのことであろう
 親切にも隣りのチャイニーズ・レストランの中に入って行ってくれた
 そこで偶然にも食事をしていた日本人を探してくれ、ウェイターが私をその人達の所へ案内してくれた
 奇遇にもその人も美容師で既に永住権を持ち、アメリカで働いていた
 そんな機縁が効を奏して、その人の住む豪華なアパートに2,3日お世話になり、アパート探しからカレッジの入学手続きまでも手伝って頂き、万事が幸運なスタートとなった

その翌日からはカレッジに通い、既に留学していた日本人達にすぐに溶け込んで、現地情報を聞くうちに、私の志した理想と現実との間には、大きな隔たりのある事が判った
 カレッジはその州のライセンスを取る為のもので、留学生の私達にはアルバイト程度の仕事は出来ても、働く事の難しい法律上の問題がある事も判った
 取り敢えずカレッジに通いながら、アメリカの実情や多くの留学生たちの目的を聞くうちに、美容留学した半数ほどの人達の目的が永住であり、アメリカンドリームを求めてやって来ている事が判った
 私の目的は技術の習得であり、数年のアメリカ生活の中で美容経験を積んだ後には帰国する事を目的としていたから、彼らの徹底した考え方とは性が合わなかった
 そして、滞在が進むにつれて、カレッジに通うアメリカ人との交友にも慣れ、生活文化の違いも判ってきた

そんなアメリカ人の気さくで明るいストレートな性格さに馴染むようになるにつれ、日本人としての自分の性格に失望感のような、暗い負い目のような一層の劣等感を感じ始めた
 日本人文化の特質や表現方法とは違うアメリカ人の明るくストレートな性格や表現方法には、引き込まれるような魅力があり、今までに味わった事のない世界の文化の広さを知ったほどであった

 このアメリカ生活で得た経験が、私の思想の一部として今も存在し、人や社会を観る人生観にも繋がっている。
 
 全てはこの頃からの始まりで、アメリカが映し出してくる生活の全ては新鮮なものばかりで、借りたアパートには生活に必要な家具が完備され、移住者の国に相応しい合理性があった
 そして私の一番の憧れは大きなアメ車に乗る事であり、マフラ―の壊れたジャンカー、中古のぼろ車を買った
 このぼろ車の騒音がまた戦車のようであり、ググっと重力を引っ張るような馬力の強さが、何と言っても魅力的であった。そんなそれぞれの私生活には、他人からの一切の束縛はないし、カレッジでの日本人同士のライバル意識は別に表立つ事はなかったが、各自が芯に人生の目的意識をハッキリと秘めていた

通学しだして半年程が過ぎた頃、既に永住してカレッジに通っていた日本人から、ハリウッドにサロンを構える経営者を紹介され、週末の土曜、日曜だけ働いてみないかと誘いがあった
 そのサロンにはカット椅子が5台ほどあったが、週末に働く人はなく、私一人が仕事をするという高齢者が大半のカレッジの延長のようなものでもあった
 サロンの仕事を終えると、車で30分程離れたオーナーのマンションまで売上を届ける
 ハリウッドと言っても非常に治安の悪そうな地域のサロンであったから、「食事を持ち込み、朝から鍵を閉め、予約のお客さんが来ればドアーを開け、またすぐ鍵を掛けて仕事をする様に」という、オーナーからの指示を受け、働いている間は外出を止められていた程の場所である
 それでもこの経験は、私にとって初めてのキャリアとなるもので、生活費の負担を少しでも軽くする事が出来た

またカレッジの休日を利用してはサンフランシスコ、ラスベガス、サンディエゴ、パームスプリングと、日本から遊びに来た友人や学友らと旅行して楽しんだ1年でもあった
 そんなアメリカは銃の所有が可能な社会であり、危険という2文字は滞在中、常に精神的な奥底から離れる事はなかったが、そんなところがまた刺激的で、若気な私の好奇心をそそるところでもあった

そんな自由なアメリカの影に潜む人種差別や麻薬が多発させる犯罪で、毎日が国内戦争を繰り広げてられているような国にあって、ホームパーティーやクリスマスパーティなどに招待されて行くと、何処からとなくマリファナがタバコのように回って来るし、吸う人も吸わない人も別に人のことを干渉しない、ドライで明るいアメリカ人の性格は魅力的であった

このロスアンゼルスには、リトル東京、チャイナタウン、コーリアンタウン、メキシカン街と、いろいろな人種の街並みがあり、それぞれの国の民族社会が点在していた
 戦後生まれのアメリカ人の若者達は、日米間にあっての太平洋戦争の拘りもなく、アジアの日本、中国、韓国国土の位置すら知らない人も多く、「日本は中国か」とか、当時はアジアに対する関心がまだ薄い時代であった
 このロスアンゼルス市内にあるリトル東京は、昭和初期を思わせる程の古ぼけた街並みで、広大な砂漠の中に隔離されるかのように置かれ、当時移民して渡って行った日本人の貧しさを象徴しているかのようでもあった
 そんな多民族が集散して暮らす住宅街を左右に見ながら、軽快なソウルミュージックを聞きながら、ぽんこつ車でフリーウェーを飛ばし、高台にあるグリフィスパークの天文台へ行ってみる
 そこから眺めるロスアンゼルスの全景は素晴らしく、平坦な砂漠に拡がる街並みが地平線にまで拡がっていて見事な全景である
 ロスの夜景ともなるとアメリカンドリームを彷彿させるし、輝く明かりの広大な絶景が心を酔わせ、気持ちを豊かにさせる

この頃、日本の経済は急速に成長しつつあった
 私達世代の人間は、この経済成長の真っ直中を新鋭隊の如く働き、日本は登り坂を歩み、アメリカは全盛期の豊かさの頂点を極め、20世紀の黄金時代を迎えていた
 私もこの頃から目に見えて運気も上昇し、学生ながら次々と仕事の依頼を受けるようになってきた
 次に紹介された仕事は無給ではあったが、シャンプーボーイとして2週間だけ、チップだけが収入という仕事であった
 この仕事はビバリーヒルズで通称キングと呼ばれているオーナーのアシスタントが2週間の休暇を取るということで、その代わりのヘルプであり、お客さんの中には日本でも有名な映画俳優もいた
 そこでの仕事が認められ、働く他のスタイリストが次の仕事を紹介してくれ、今度は給料もでた
 このオーナはビダル・サッスーンから独立してサロンをオープンし、フランス人、カナダ人、モロッコ人、メキシカン、韓国人と人種の異なる多くのスタッフが働き、英語もろくに喋れない私にとってはいい刺激であった
 サロンに流れる程よいミュージックの微妙なテンションの高さと、個々のプロ意識が同化して(かも)しだしてくる雰囲気は、まさにインターナショナルであり、毎日が楽しく新鮮で刺激的であった
 常に働くための悩みは一つで、言葉のギャップが私にとっての一番の厄介ものであったし、働くスタッフとの意思の疎通が難しく、話し掛けられても中々その明るい雰囲気に乗れず、笑って誤魔化して返事をする、言いたい事も旨く伝えられない事であった

そもそも当時の私は、あまり英語の深くにまで関心がなく、渡米以来の目的が主に技術の習得に置いていた事もあって、広く一般用語の英語を学ぶという事に難儀を覚えていた
 しかしそんな事がアメリカで仕事をする上で通用する訳もなく、ドライなアメリカ生活にあっての不自由さから解消される為に、同僚で仲の良いスタッフとの交友だけを深めていった
 そんなところからアメリカの文化を学ぶ事は多かったし、心の疎通を計れる人間同志に於いてのみ拙い英語でも支障なく過ごせてきたが、アメリカンジョークなども判らない対話は疲れるし、日本語でさえ判らない言葉づくめなのに、英語などの奥を極めてゆく事など到底面倒であると思えていた
 それよりも日常の興味はテレビやラジオ、ミュージックから流れる、アメリカン・イングリッシュの流れるような響きや、そんな雰囲気の感性を好んでいた

私が勤めていたサロンの通りをキャノン・ドライブといい、一本隣の通りがロデオ・ドライブ
 そこには一流レストランや有名ブランド・ショップのグッチ、ルイ・ビトン、エルメスなどの一流どころが軒を並べており、ビダル・サッスーンのヘアサロンもこの通りに面していた

この頃、既にカルフォルニア州の美容ライセンスも取得し、カレッジには新たに一年延長滞在の留学ビザを出して貰い、その変わり週に1,2日は学校に通う事が原則条件となっていた
 しかし、そんな事は無視して殆ど仕事に没頭して過ごしていった
 私達留学生には滞在できる期間も短く、長くて2年、働くスタッフ同士や日本人留学生同士とのライバル意識に燃えながら、早く技術者として働ける事を目指して、夢中になっていた
 サロンの閉店後にはカットモデルを連れて来て、眼で見て覚えたカットを理論付けて真似て作ったり、独創したヘアスタイルを創作する事を練習として来た
 この頃は、一人前の技術を習得して、帰国する事だけを考えていた一色染まりであったから、休日でも日本人、韓国人、メキシカンの知人をアパートに呼んで、勉強を兼ねたアルバイトもどきをしていた
 そして夜遅くまでノートにヘアスタイルの図形を描き、その切り方やプロセスを細かく書き込んでいたものである

また、ロスアンゼルスには、日系人のリタイアメントホーム(敬老施設)が3ヶ所あって、そこにボランティアとして月に2回2年間ほど通い、高齢者へのヘアカットを通し勉強し続けた
 このボランティア活動が日系のテレビ局に取り上げられて放映され、ジャパニーズ・コミュニティーから表彰状を頂いた事がある
 勤めるサロンのオーナーにはアシスタントではなく、技術者として雇って貰えることを度々相談して来たが、もう少し辛抱して英語を勉強しろとの膠着状態が続いていった
 私の留学は短期的な時間との闘いでもあったし、焦る気持ちも重なりながら、1人前のヘアスタイリストとしての条件が整っていない事は判っていても、どうにかチャンスを掴んで道を開いて行かなければ、アメリカに来た目的を叶えられないと、人から抑えられる屈辱感みたいな、一種己にも覚めたもどかしさを感じていた

 ビバリーヒルズは世界でも有数な一等地である
 そこに憧れて誰もが下積みから一流のプロとしての仕事に夢を馳せて努力し、()い上がってくる者だけが認められもするし、幸運を掴んでゆく者がサロンを構える事ができる
 だから誰もが自分の仕事にプライドを持っていたし、私もその道を目指して頑張っていた
 しかし、語学力とアメリカンナイズされたドライなプライド意識だけは、生まれ付いての私の性格もあって、どうにもならないものがあった
 当時24才、初めて自分の人生の目的の為に、がむしゃらになって頑張り、人生に這い上がろうとしていた懐かしい青春時代である

そんなアメリカへの留学を通し、永住を目的に渡米して来た日本人美容師の女性と同棲するようになり、サロンを共同経営でオープンしないかと誘われるようになった
 その女性の目的はアメリカに永住してサロンを持つ事であり、私は帰国してサロンを持つ事でありながら、2人で1つの夢に絞ってゆくようになった
 リトル東京や他の地域でサロンを開業する気はなく、せめてビバリーヒルズであれば協力するという事で折り合いが付き、ビジネスが軌道に乗れば私は帰国して、日本で店を持つという条件で話が纏まった。それはまたアメリカンドリームの始まりでもあった

そんなある日、ニューヨークで理美容の世界大会が開催される事を知り、勤めるサロンのオーナーには4日間の休暇を貰い、2人でニューヨークへ行ってみた
 温暖なロスアンゼルスとはまるで違うニューヨークの繁華街には、洒落たカフェーに粋な帽子を被った、エレガントな女性の似合う雰囲気があった
 我々は3流のホテルに泊まり、圧倒される人込みの中を右も左も判らず、地図を頼りに歩いた4日間
 この4日間を通してこのニューヨークで見てきたものは、高層ビルの立ち並ぶ日の差さない街路地を、身を刺すように吹き抜けてゆく冷たい風と路上から吹き上がる蒸気
 そして、地下鉄の閉鎖的なコンクリートの壁や車両に落書きされた、薄汚い黒人的な圧迫感
 白人社会を中心とした自由の女神が象徴するニューヨークのイメージに想像したものは、人種差別と貧困と巨富の中で暮らす、人間の縮図のさまざまであり、多種多様な民族で作られた世界経済の中心に相応しいアメリカンパワーが、高層ビルの街の中で間断なく(うごめ)いていたということ
 そして、この大都会を形成する人種の坩堝(るつぼ)には、人間が能力として想像し得る、あらゆる欲望が大衆のエネルギーとなって(ひし)めき合っているかのようであった
 理美容の世界大会の会場には、各国何万もの人が詰めかけていて、世界の民族が一集したような大ホールの中で、最も印象に残ったものは日本の着物ショーであった
 この4日間というもの、我々の食事は常にコーヒーとハンバーガーかサンドイッチ
 それでも意気揚々と革のバッグにブラックミンクの毛皮を羽織りながら、ニューヨークの寒さと空腹を凌いで味ってきた観賞旅行である

4日間という休暇はあっと言う間に過ぎ、ロスアンゼルスに戻る機内で、ビバリーヒルズにメンズサロンを持つ日本人理容師の知人と一緒になった
 その人は理容部門の世界大会で優勝した経験を持つ方で、同じ機内に一緒に乗り合わせていたフェルナンドという人を紹介してくれた
 彼は近々、ビバリーヒルズにサロンをオープンするという事で、私は求職を頼み、ヘアスタイリストとして働かせて貰えるチャンスを与えて貰った
 私が今、勤めるオーナーに退職の申し出をした途端、本日をもって即刻解雇というのがアメリカ流の常識であった
 さすがの私もそれには日本人の常識を失い、文化の違いに面食らったものである

新たな出発となるサロンでの雇用条件は、顧客は自分で掴む事、その売上の60パーセントが収入というコミッション制である
 全ては実力次第という事であり、取り敢えず自己資金を投じて日系新聞に広告を載せ、日系のテレビ局には15秒間のコマーシャルを打って出た
 それでも当初は収入も少なく、オーナー、マネージャーのアシスタントを兼ねながらチップだけで働く日は多かった
 閉店後にはオーナーが作成するヘアデザインの助手をしながら、休日には遠征する講習会にも同行し、経験を積ませていただいた
 当時、彼は日本でも有名な方で、ビダル・サッスーンの新作を手掛けて全盛期を支えたトップヘアデザイナーの1人であった
 しかし彼の育ちはメキシコ人特有の陽気者で、技術や感性には優れた才能を持つものの、経営者向きではなかった
 友人が訪ねて来ればソファーに座って喋りっぱなし、クライアント(常連のお客さん)を1時間待たせても悪びれないところがあった
 彼は私にとっても憧れのヘアデザイナーであり、私も技術者畑の道を目指していたから、一流所ともなると格が違うと感心していたが、仕事以外のことはマネージャーに任せて、経営はそっちのけという呑気な性格であった

これまでに出会ってきた3人が3様、それぞれにタイプは違うけれど、ビバリーヒルズで名を馳せていた一流のヘアドレッサー達である
 この縁が私の自信に繋がる体験となり、会話以外での外人コンプレックスはなくなった

 渡米して既に3年、徐々にクライアントも付き、夢のまた夢であったビバリーヒルズでのサロン開業にも好機が訪れる事となった
 共同出資でサロンを持つ約束をしていた女性の働いていた日本人オーナーが、リトル東京にオープンするホテル・ニューオータニの中に、サロンを移転するという事で、我々にサロン売却の話が持ち上がってきた
 アメリカ留学以来、人との縁にも恵まれて、事がとんとん拍子に進んで絶好の機会を迎え、そのサロンを買い取る事にした
 そして日系新聞に再び共同の広告を載せ、アメリカ人のフォートグラファーを雇ってヘアデザインを2作を作り、サロン内イメージを整えて営業を始めていった

私は独自のヘアー作品を作ってゆく事も一つの夢ではあったが、その2作だけでも随分とお金が掛かった
 考えて見れば以前のオーナー達も、多くの作品を作らなかった事を思うと、ビダル・サッスーンが斬新的な創作を生み出した黄金時代以降、後続するようにトニー・アンドガイ、セバスチャンのジェリー・カセンザなどといったヘアデザイナーが趣意を異に、多くの作品を発表してきたが、既にフォートによる斬新的なデザイン創作とカットプロセスの基礎は、ビダル・サッスンによって完成されたと感じるのである。私もそれ以来、費用の面からも2作で止めてしまった
 
 この頃の我々は学生ビザのままでサロンを買い取って、営業を続けていった
 その後、私がワーキングビザの申請に至ったのは、パートナーと共同経営を離れざるを得なくなった時である
 それまでは仕事に何の支障なく過ごし、経営も順調に運んで、アメリカに永住権を持つ日本人や韓国人スタッフを入れて、一緒に実績を積んでいった
 サロンも順調に栄え、お互いに別々のアパートを借りて車も新しく買い換え、アメリカンドリームの斯業(しぎょう)を謳歌していった
 そんな貴重な経験の痕跡を残しながら夢の頂点を登りつめ、舞い上がった花火が花開き、やがて徐々に消えて下降線を辿って行くように、我々の運命もやがて、その頂点から下降してゆくようになったのが、開業から2年程経ってからの事である

我々がその下降を辿る発端となったのが、パートナーが学生ビザのまま一時帰国することとなり、再びアメリカに入国する際のロサンゼルス空港の出入国管理局員の尋問により、当時、彼女が米国内で働いていた事が発覚してしまったことからである
 その時、急遽アメリカに永住権のある日本人知人を保証人に立て、彼女に数日間の滞在許可を許して貰ったものの、結局は強制送還という羽目になってしまった
 我々が当初出入国に関する知識に甘かった事が原因でもある。そして彼女は数日間の滞在でアパートを引き払い、荷物を纏めて帰国する事となってしまった
 私は彼女が投資した半額を返し、サロンを買い取る羽目になった
 先々は私の方が日本に帰国する事を楽しみに技術畑の道を志しながら、結局は私がアメリカに残るも同じ苦境に立たされて孤独を味わう事になっていった
 1人で精神的な支えもないアメリカに住む気にもなれず、将来までを考えれば、生き甲斐を見い出せないアメリカ生活は、私にとってはもう大した意味のあるものではなくなった

この頃から盛況であったアメリカ経済にも徐々に陰りが見え始め、逆に日本はバブル最盛期に差し掛かって、盛況の時代を迎えていた
 そして帰国したパートナーは、その後もアメリカ再渡米に執念を燃やしており、これより私の両親を巻き込んで、不快な関わりを持ち始める事になっていった

私の両親所有の小さな貸しビルの2階に、日本支店をオープンする話しを両親との間で進め、そのサロンの責任を任せて欲しいと言うものであった
 その彼女の内心の目的は、ここをアメリカのサロンの支店としてビザを書き替えて、再渡米する事を考えていたようで、私も両親もそのパートナーの言う事を受け入れ、開店の準備が進んでいった
 この情報を知ったロス郊外にサロンを持つ、同じ美容師の知人が私を訪れ、ビバリーヒルズのサロンのパートナーとして出資したいと申し出てきた
 彼もビバリーヒルズにサロンを持つ事は夢であり、また将来は日本と行き来できるチャンスも生まれて来る事から、彼にとっても私にとっても渡りに船というところであった

私はサロンを彼に任せ、日本のサロンの開店準備の為に一時帰国し、アメリカに再度戻るまでを3ヶ月間として、彼にサロンで働いてもらいながらマネージメントを任せる事にした
 そして急遽、臨時雇用で日本人の美容留学生を雇ったものの、その瞬間から理想とするアメリカ色は消え、日本のサロンと何ら変わらないものとなり、自らのアメリカンドリームを消してゆく縮図を、自らが用意してしまったかのようになった
 
 留学を志し、目的と希望を抱いて渡米した人生に、夢のまた夢を馳せて実現させたものの、最終的なサロン売却までに味わった苦楽を含めて、雲の上を歩んできたようなアメリカンドリームを味わってきた青春時代であった

そして、日本に帰国した私を待っていたのは、思わぬ彼女からの手の平を返すような仕打ちであった
 私の両親にサロンを開業させて任せて欲しいという事から一転しての責任回避であり、その理由は彼女が強制送還でもある事から、2度とアメリカへの入国志願が不可能である事を知ったからであろう
 この突然の事態に親子でもって振り回され、彼女との不快なめ事は、その後の更なる私の人生に深く遺恨を残す事となっていった

その彼女は再渡米の実らぬ断念から、今度は既にアメリカから帰国していた知人と手を組み、私の事情を知りながらも共同経営で六本木にサロンをオープンする話を纏めあげていたのである
 人が信用できないという私の発想は、この当時からの体験で芽生え始めてきたもので、日本人の陰湿な性というものを、まざと見せつけられた年頃であった
 これでは人生経験の甘い若輩者の私など、さすがに弱り目にたたり目で、沸き上がる怒りは納まらず、手玉に取られた己が情けなく、両親の支えがなかったら、一生この怨恨を引き続けたであろう程、精神的にも深い傷を負った
 只々、冷静に立ち返って、両親との間にも生じさせられた全ての責任は、己の無知さと甘さにあると受け止めて辛抱し、新たなる環境を作りださなければ、この恨みは対人関係にしても、これからの人生の再起にも魔壁となって生活を狂わしていたであろうと

急遽、この人間関係を知る日本の美容師知人の援助を受けながら、スタッフを募集して開業に漕ぎ着けたものの、3ヵ月後の渡米は無理となった
 その状況を知ることになったビバリーヒルズへの共同出資を求めてきた知人からも、渡米を催促する国際電話が頻繁にかかり、結局、再渡米には6ヶ月掛かってしまった
 取り敢えず母に相談し、最年長のスタッフにサロンを任せて渡米したが、この6ヶ月間の間に1200ドルもの赤字を出されて返済を要求され、パートナーとしての約束どころか、サロンのスタッフまで連れて自分のサロンに引き上げてしまった
 私は1人残った留学生の負担を抱え、彼への借金返済の為にその彼に車を売り、アパートも引き払う事になった

 1個倒れたら、ドミノ倒しのような不運は止まらず、また新たに採用したスタッフには、私のクライアントの住所と電話番号を盗み撮られ、挙げ句の果てにあっさりと辞めて行った
 渡米して7年、幸運にも恵まれ、人1倍の順調さの中に努力し、人生を運んでいる時には、そこに寄り集まってくる人間関係もあれば、また同時にそれが嫉妬や妬みを生む基となって、陰で糸を引かれるものである
 人はそこに得られる利益がなくなれば、背を向けて去り、挙句の果ては、誰もが寄り付かなくなってゆく現実というものも味わって来た
 こう言った人間関係の希薄さの中で苦汁をなめてきたせいか、人は信用できないという、新たな心の芽生えが湧きあがってきた
 この頃こそ己の無能さや、人との人生の様々を(とく)と見せつけられ、人生は理屈ではない妙というものを身を以って知らされた
 それから帰国するまでの月日というもの、常連のお客さんに励まされながらも、傷ついた心は癒される事なく、深く孤独感を引き続けることとなった

そんな奈落の底に落ちた心境の時に帰国を決め、ロスアンゼルス・タイムスにサロン売却の広告を出した
 しかしその後、訪ねて来る人はあっても条件に合わず、時間だけが刻々と過ぎていった
 私が渡米した時は1ドル320円、売りに出した頃は1ドルが260円である
 サロンの売値は4万ドル、今の為替レートからすれば誰でも欲しければ買うことができる価格である
 しかし、ビバリーヒルズという所は誰もが憧れる場所でありながら、商売は難しく、アメリカも不況の途を辿っていた事もあって、なかなか買い手が現われなかった
 私は極力、帰国の事を考えまいとすればするほど逆に、時間が経ってゆく日々に焦りが募ってゆくばかりで、精神的にも不安定となり、死という心境を意識し始めたほどの深い孤独感に陥っていた
 そんな毎日は孤独との葛藤であったし、毎日その精神修養として昼も夜も暇さえあれば、写経を繰り返して過ごして来た。そして何時しか、経文などを見なくても写経が書けるまでになっていた

 23才で渡米してから足かけ8年のアメリカ生活で、自分の人生観が180度変わってしまった程、人との接し方や見かたや考え方も変わり、人の心を見透(みす)くほど猜疑心も強くなったし、その反面では自分自身を縛り付ける事にもなっていった
 そんな心境からか人、国、文化というものを含め、己の人生観を世界観に立って見るようになり、日本人という国民意識に対する考え方も変わった

想い起こせば、当時アメリカに渡って来た美容師の帰国組には、2年間程の滞在者が多く、カリフォルニア州のライセンスを取って帰国してゆく人が殆どであった
 私も留学ビザの関係から当初は2年程しか滞在できないものと思っていたが、アメリカンドリームを追って人生の奥へと夢を馳せ、有頂天の先に辿り着いたその果てに見えて来たものは、人生のはしくれであり、生きる事への原点を見つめ直すことにも繋がっていった
 また、1つの夢から2つの夢を叶えて尚も理想を大きく膨らませていった事により、それぞれの人とは噛み合わなくなってゆくという人生観の中で、己の器量すら身に染みて知ってきたいい経験であった
 そして今、無事にこうして日本に帰って来れた事は、何よりの幸福である。アメリカでは私みたいな人間は半端者の合理主義者として通用しないのであり、日本人気質など捨て、アメリカンナイズして生きて行く覚悟がなければ、人生孤独に陥ってしまうのである

また当時アメリカに永住を求めて行った人達には、擬装結婚や不法滞在までしてでも、永住を志していた人は少なくない
 皆それぞれに人生の目的があり、その夢を追って誰もが真剣であったし、我々のような帰国組の事など目もくれず、虎視耽々とそのチャンスを狙っている者もあった
 そんな永住を目指した美容留学生の中には、日本で預金を蓄えて渡米し、一から自活を試みてゆく人もあり、そんな強いハングリー精神は、私みたいな甘ちゃんには出来ない事である
 ある人は親との縁が薄かったり、日本で暮らす事に何か不都合があったりする人もあり、同じ安いアパートを共同で借りて生活して通学し、職場を探しながら人生をアメリカに求めてきた人達もあった

そんなある70年代のロサンゼルスでのことである
 永住権を取得し、同じ町並みの中でジャパニーズ・レストランを経営する日本人同士が、一方のレストランの繁栄を妬み、不法滞在者、留学生を雇って営業しているという事を移民局に密告した、所謂「日本人狩り」と言う事件が起こり話題となった
 この密告によって大概の事には眼を(つぶ)っていた移民局が動き、日本人レストランやバーで働く不法滞在者や労働者を摘発し、強制送還させるという事件にまで発展していった
 日本人同士の商売仇を妬んだ密告により、巻き添えになった学生ビザの留学生や、不法労働者が摘発されていったこの事件に、私は同じ日本人としての心のあさましさ、文化の恥を感じたほどである
 今、日本にも多くの外国人留学生や不法滞在者がいて働いているが、密入国者や凶悪犯罪者などは別として、私もアメリカで同じような生活経験を持った人間として、外国人の境遇そのものには一部同情に引かれるものがある
 逆に現代の日本人の有り方を外国人から学ぶべき事も多く、立場の違う経験をして見れば、そこから自分を見つめ直したり、相手のことを自分に置き換えて理解してゆける心の広さも育ってくるものである


 そんなアメリカにも、親の移民と共に渡航して行った若者達がいる
 私が車を売り払って孤立していた頃に、サロンの常連客であった移民女性の家族に大変お世話になって助けられた
 車の欠かせないロスアンゼルスでは、日本食を食べに行くにもバスで往復3時間はみて置かなければならない不便さである。売却が長引いた1年ほど、この家族によって孤独な生活までも(しの)ぐ事ができた
 人を見捨てる人もあれば、助けてくれる人もあり、渡る世間に鬼はないと言うが、見知らぬ他国にも鬼ばかりではなかった
 苦心をしていた時であったから、人に施される情ほど身に染みて有り難い事はなかった
 しかし既にアメリカに夢は失せて学ぶものはなく、只サロンに馴染み、親しんでくれている常連のお客さんには、帰国する事への後ろめたさがあった
 知人の少ない異国にあって1人、また一人と帰郷して離れてゆく淋しさを、私も感じてきた外国生活であったからこそ、私の去る立場もまた複雑であった

そんなある日に、ある常連のお客さんから援助話があり、資金も調達し日本から芸能人も連れて来てあげるから、アメリカに留まらないかと持ち掛けて来てくれた人があった
 このビバリーヒルズを常連とする人には金持ちが多いが、その方の援助話も、もう私の精神的な支えにも再起を計る力にもならなかった
 その後、精神的苦汁をなめてきた私の心境を察してくれてか、「家内もこのサロンに毎週きている事だし、なくては困るからこのサロンを言い値で買ってあげる」と持ち込んでくれた
 しかし、私はその好意を素直に甘んじる事が出来ず、「素人経営は難しいですよ」と相手の親切すら断ってしまった
 私はほんまものの馬鹿の付くほど利得の目先きに未熟な人生であって、折角4万ドルで買って貰えた条件をフイにしてしまった
 それから間もなくして相談に現れた、ある知人の美容師にサロンの売却を決めてしまった。しかも、彼には購入するだけの資金がなく、に彼の希望を聞いて値段も下げて折り合いをつけ、返済は日本に毎月定額ずつ送金してくれればいいという事で口契約し、私は早速に帰国の準備に掛かっていった
 しかし、彼は徐々に私との共同経営を望むようになり、一緒にサロンを経営しようと、持ちかけて来るようになった
 既に共同経営の難しさを味わってきた私は、彼の相談を断った

(続く)生きる4:【人生の出直し】

「天と地の間に生きて」 
第2章:【希望】
第3章:【信仰と心】