(はざま)生きて:  信仰と心4
信仰が伝えてきたこと

 中国で儒教を説いた孔子は論語の中で、「先祖を厚く供養し、親を敬い孝を尽くす」と言っている。
 儒教は、紀元前6世紀ごろの思想。仏教、イキスト教、イスラム教の起源前に説かれた先人「孔子」が説いた教である。
 
 儒教とは、人としての有り方、生き方を説いた教えであると共に、人として家族として親子の縁を通し、個々の素行に問う大切な道徳観である。
 「先祖を厚く供養し、親を敬い孝を尽くす」ということは、尋常な人であるならば、誰もがその意図を理解できることである。

 身のほど知らずで儒教思想の思慮に浅い私は、この「先祖を厚く供養し」という供養を我が身に置き換えた時。
 「我がこの世を去った死後の供養(冥福)を子孫に託してゆく」・・という事になるのであろうかと。
 もし、…そうであるならば、それは私本人の生前の人生をどんな人としての生き方をしてきたしまったのであろうかと、...改めて我が身の過去を振り返り、この先の人生に思いを張り巡らせるのである。

 仏教には1回忌、3、7、13回忌…と、家族、親族、知人たちを交え、その死者を供養し冥福を祈る法事というものがある。またお彼岸、お盆と年に3度、先祖の供養を重んじる月があり、この世の家族とあの世の先祖とが再会をする縁日というものがある。
 そういった先祖供養の仏教的儀式は、仏教徒であれば尚更のことで、この世に残る我々のような俗な家族にとっても、先祖代々からの家系を継承してゆく伝統的な風習を維持継続してゆく意味においても、一般的で大切な社会通念である。


 が、しかし、宗教的で尚且つ崇高な観点から人間の生命の死ということを捉えた場合。自らの死後の供養を子孫に託して行かなければならないという、後生の事と捉えた時。仏教が伝える真の供養とは、自らが生前において勤め行ってゆくべき事なのであると。
それを仏教では回向(えこう)といい、生前において功徳(くどく)を施して、自他ともに仏果を得てゆく事を指すのである。

 仏教伝来のお釈迦様の教えの由縁であるが、それを方便から引用すれば、「仏の顔も三度まで」という言葉がある。神様は慈愛をもって2度までも罪を許し救ってくださるが、仏様はその人の穢れた罪業を3度まで救ってくださるということを説いたもの。神の恵みすら失って、欲深く罪業を重ねた不信心な俗人に対し、御仏の慈悲深さを明かした教えである。…仏様の意とは、神意に叶わない不祥者は、御仏に縋り求めなければ死後も救われないことを指すものである。

 我々は一般的に人が死ぬと「仏様になった」という。そして死んだ人の生前を(いた)み、(とむら)ってゆく。しかし本来、仏教でいう仏様とは、大日如来や阿弥陀如来、観音菩薩といった、基から浄土に(ましま)す御仏を指すのである。また、人間から成って仏国浄土に入滅した弘法大師、最澄、慈覚、法然、日蓮、親鸞、道元禅師のように、人の救済に努め、功徳を積んだ人のことを指すのであり、師、聖人としての称号がつけられている。その他、世間一般人でも戒名(法名. 法号)が授けられるが、これは死んで仏様の弟子になったことを称すもので、正しくは死者(死人)という呼称である。俗世間では、罪業の深い人間でも、また生前の名声を重んじ、お金で戒名(高い位の法名・院号)を買う者もあるが、これは仏様の世界には通じない俗世間的のものである。また、「六文銭」といって、御縁を授かる意で5円(ご縁=命の次に価値ある金銭)を棺の中に入れる風習もあり、これは「三途の川の渡し賃」とされる俗習で、仏様との御縁をいただくといったものである。「地獄の沙汰も金次第」と気休め的なものであって…他にも文化的風習は宗派によっていろいろな仏事がある。
 仏様の側から観られれば、この世で名付けられた我々の名前は「俗名」であり、死んで授けられる戒名とは、この世を離れて仏道に帰依(仏門に入る)ということを意味する。


 その我々一般が死んで仏様の弟子になったとしても、極楽往生し仏国浄土に入れる訳ではないということ。極楽往生(天界)とは仏教的に言っても、ごく限られた人に叶えられることで、孔子の儒教はそういった崇高な宗教観よりも、庶民に馴染み易く説かれた教えと言えるであろう。
 我々のような生前に功徳も積まない人間が死後、子孫が、またお坊さんに頼って供養していただくことは、生前の罪業を仏様の慈悲によって、その苦しみから徐々に救っていただくということである。

 芥川龍之介の小説に「蜘蛛の糸」というのがある。生前に悪行を重ね、たった一度、一匹の蜘蛛を殺さずに見過ごしてあげたというもの。仏様(お釈迦様)は、蓮の葉の間から地獄を覗いて、このような者でも救ってあげたいと前生の過去帳を調べ、蜘蛛を逃がしてあげた慈悲の心を取り上げ、地獄に落ちた彼を救わんと、蜘蛛の糸を地獄に降ろしていった。・・・結局は、自分だけが助かりたいという欲から蜘蛛の糸は切れてしまった。・・・人間の強欲と罪深さ、御仏の慈悲深さを(つづ)った小説である。
 地獄の底とは本来、不幸に陥れられた者たちの怨念が強くかかり、神の力(祈祷)、仏の力(供養)によっても救いようのない永劫の苦界である。小説「蜘蛛の糸」は、まだ地獄の奥底まで落ちていない人物を描いた比ゆ的なものといえる。

 仏教には、故人を供養する仏教行事に49日法要がある。死後の7日毎に閻魔(えんま)大王の裁きを受け、49日目に極楽浄土に行けるかどうかの判決が下されると言われる。
 故人の死後、49日間を通して信仰を覚れない者は、前生に作り上げてきた因縁によって、来生に生まれ変わるに相応しい国や両親やその境遇を見せられるという。その後、幾十年、幾百年と霊界で留まり、再びその時を経てこの世に転生して来るという。
 今の我々が生まれ変わってきたこの国や家族や人種や境遇に、人の不平等さが生じているのもその因果であり、前生の行いによって自らが選ぶ事の出来ない因縁の結果なのであると。この現生(人間界=迷界・苦界)を修行の場と呼ぶのも、極みは天界(極楽浄土)に往生する事が、我々の本性の霊(魂)にとって、最も清められた至福の道であることが説かれている。

 その昔、この日本では小乗仏教という仏教思想が主流であった。ある限られた人(出家して修行し、悟りを開いた人)だけが救われて往生できるのだという、自己主義的なもの。現代のインドやタイなどの東南アジアには、今もそのような仏教思想が強く残るようである。
 現代の日本には大乗仏教という、広い御仏の真理を説く教法が広がり、利他主義の立場から人間の救済を教義とする仏法が説かれている。その大乗仏教の教義とは、すべての衆生が御仏という大きな船に乗って救われ、涅槃(ねはん)(一切の煩悩から解脱し、生死を越えた境地・仏国浄土)へ導くという教えである。
 しかしそれは、すべての衆生を無二に救わんとする聖人たちが、御仏の慈悲の立場に立って解き明かされてきた、発展的で進歩的な教義となってきたものであり、真実在し(ましま)す御仏の深く広大な慈悲深さを説いてきたものである。

浄土真宗の開祖親鸞聖人は、その御仏の慈悲を説き、「善人なおもて往生す、いわんや悪人おや」(善人でも往生するのであるから、悪人でも改心し、御仏に縋って光明を得んとするならば極楽往生し、救われない筈はないのである)と。人は生まれの卑賎(ひせん)(地位、身分の低い)に関わらず精進し、今生の境地を越えて御仏に帰依してゆけば、すべての者が皆平等に中道の幸せを得てゆくことができることを説いている。

 仏教は、お釈迦様(釈迦如来)の説いた教えであると共に、チベットではお釈迦様の仏教興隆以後、密教が盛んになった。密教とは、仏教の2大区分の1つであり、大日如来(真言密教の教主)が説いた深遠な秘奥の教法とされている。仏の悟りをみだりに公開しない秘密仏教の事で、加持、祈祷を重んじる事を特色とする。
 日本では天台宗の開祖、伝教大師最澄(さいちょう)によって伝えられた台密と、真言宗の開祖、空海(弘法大師)によって伝えられた東密があり、顕教(お釈迦様の説いた仏教で、言葉で伝えることのできる教え)とは異なる、深い幽玄さを持つものであるという。この密教が顕す人間の死後の世界を「チベットの死者の書」の一部では、このように伝えている。
 
 チベットでは今も死者の埋葬に鳥葬という風習があり、肉体を鳥に与えて自然に返すというものである。密教でも輪廻転生が説かれ、永遠の生命(霊魂)が再び人としてこの世の人間界に戻る時、人として生まれてくる為の最も幸せな条件が2つあると説く。

その条件の1つが、「信仰の栄えている国に生まれ変わってくること」と言う事である。
 またもう1つの条件は、「信仰心の厚い両親の基に生まれて来ること」ということが説かれている。信仰の栄えている国とは、争いのない平和で豊かな国を指し、その国で信仰を尊ぶ両親の所に生まれ変わることが最も幸せな条件であると。
 我々の死後の生命(霊魂)は、この世の修行が足りて永遠の天界(極楽浄土)に帰って行くものと、数十年、数百年の歳月を経て、また人として生まれ変わってくるこの人間界の現世があり、人としても二度と転生しない地獄という永劫の苦界とに別けることができる。

また「チベットの死者の書」では、我々がこの肉体の寿命が尽きて死を迎える時、全ての人に例外はなく、3つの恐怖が浮かび上がってくると言う。
 その1つが、これまでの人生の記憶が走馬燈のように現れて、生前に於いて人を騙し、欺き、犯してきた所業悪意の数々が呼び起こされ、その深罪な念に襲われてくる恐怖心である。
 2つ目は、生前を振り返り、これまでの一生を通して、人として悔いなく本望な人生を成し遂げてきたであろうかという、後悔の念に()られる恐怖心である。
 3つ目は、これから向かう死後の世界への恐怖心であると。
 そして我々がこの世を去った死後の49日間というもの、仏様が毎日その光明を通して現われ、死者を浄土へと導くという。しかし、死者が生前に積み重ねてきた想念や罪業によっては、御仏の光明に恐怖心を抱き、他方から放たれてくる色とりどりの光の中から、死者の好む光の方向に49日間を歩んでしまうのだという。
 我々の現在ある身に潜む深層意識(心境)や境遇は、そういった前生からの想念や罪業の結果を引き継いできたものと言える。


以前、私はスウェーデン・ボルグの著書を読んだ事がある。彼はノーベル賞も手中にする程の有望な科学者だったらしい。しかし、ある日突如、神の声が聞こえ、「この世の人達に霊界のあることを伝えるように」と言われ、科学者としての道を放棄してしまったという程の人物である。
 その書物の末節に私が記憶する限りでは、このような事が書かれていた。「人は生まれ変わり死に変わり、幾度も何度となく繰り返す輪廻転生というものを深く考えて観れば、それはとても恐怖なことである。こういった気の遠くなる程に、永遠に繰り返す生命の事を想えば、肉体を持つということは苦痛ではないか」というような事であった。私もそのような事を考えていた1人であって、その末節がとても印象深く残っている。

スウェーデン・ボルグのような科学者がある日突然と霊感を受ける人もあり、元より霊感が強くて亡霊を見る人、邪霊が憑依(ひょうい)する霊媒体質の人がいたり、心の行を通して神より正しい霊能力を授かる人もいる。私も長年、霊能力を授かるために心の行を続けてきたが、その行通力はまだ授からないけれど、今日の科学では解明できない、そういった能力を持つ人が現実にいるのである。
 只、その能力が天性のものなのか、本当に正しい神仏に通じているものなのか、例えその霊能力が授かったとしても、人は何の目的の為に使ってゆくのか。人それぞれの行い次第で、全てが信仰と心が結びついているかは不可解なところでもある。
 また人を救済する事を目的とする宗教信者が、人を殺したり、騙したり脅したり、信仰が建前の邪教団があったり、政治との現世利欲に絡む教団もあったりする。はたまたインドのヒンズー教にはシバ神という神があるが、この神は本来、ヒンズー教においては破壊の神として邪悪なものを滅ぼす正しい神である。しかし、この神(シバ神)の存在をこの日本の中で用いて信徒を洗脳していった教団教祖があり、罪もない多くの人が殺害(ポア)されるといった大事件も起こった。
 異なる風土や風習や民族性の中で興ってきた宗教には、崇高な教えと俗的な教えも存在し、また、異国の風習や宗教の中においては敬遠され、敵対視されることも多い。
 
 現代は、お釈迦様が入滅してから2400年が経つ末法の時代。お釈迦様の死後1500年(最初の500年が正法の時、次の1000年が像法の時)を経た後の1万年を指す。仏法が衰え、修行して悟る者のいない時代であるといわれる。それぞれの宗教思想が国を超えて広まりながら、戦争や自殺行為によるテロ、殺戮を繰り返す宗教信者というものを捉えた時、時代は未来へと向かう中で、各宗教、宗派の思想を超えた正しい信仰の有り方が問われている時代である。
 宗教は、人類最高の哲学書として説かれてきたが、その哲学のみに捉われると盲者となり、偏狭な人格を備えてしまうので疑問である。宗教は本来、各教理から人を正しい実践の信仰へと導く事を真の目的に説かれて来たものだからである。

その宗教の起源を探って行くと、現代に拡がる宗教が新興宗教ならば、真言宗、天台宗、浄土真宗、日蓮宗、禅宗なども当時は新興宗教として拡がり、世界の3大宗教といわれるキリスト教、仏教、イスラム教も、また当時に興った新興宗教という事である。その信仰の起源は、この宇宙の存在の顕れから経て人間が誕生した時より始まり、遥か遠い古代文明の時代へと遡る。人間の持つ本能よりこの自然界を支配する主を神(霊)して崇拝し、あらゆる土地に分散していった先住民の預言者(神通力者)によって形式を変え、その土地の風土や風習の中で各宗教儀式となって根付き始めていった。


 その後、お釈迦様がインドに生まれて悟りを開いて仏教を興し、イエス・キリストは救世主としてベツレヘム(イスラエル)に生まれてキリスト教を説き、マホメットはイスラム教(回教)を開いていった。仏教の経典もキリスト教の聖書も、後世の人によって作られいったものであり、イスラム教の聖典はユダヤ教(最古の宗教)が元となり、預言者マホメットにより教義化されていった。
 
 お釈迦様の仏教は8万余巻の経典となり、キリスト教は2000ページにおよぶ聖書に集約され、イスラム教はコーラン114章からなる聖典となった。
 我々が神仏を崇める事を信仰といい、宗教はその土地の風土や風習、また発展した時代的背景などが基となって、一神教、多神教、仏教、密教などの教理となって説かれてきた。信仰は古来原始の時代より、国も民族もない、自然を超越した神への信仰として崇められ、お釈迦様の悟り以来、神と仏の教えとして(へだ)たる機縁となって栄えてきたが、その根源は一体観として顕在し、人との根源もまた生命の霊によって同根である。


 我々は神と仏を【神仏】という言葉の序列で敬称するのは、古来原始時代よりこの世のすべての創造主を神とし、この地球に人間を創り上げた主が【神】であることを顕す由来である。
 キリスト教の神はヤハウェ(エホバ)、日本神道は天御中主命、仏教の上座部仏教では釈迦牟尼仏を指し、イスラム教は神アラーを指す。
 そして、密教(お釈迦様の仏教が進化して解き明かされてきた教え)では、仏様も神と同様、この世の創世記より存在する宇宙の実相、真理を仏格化した根本仏=大日如来を説くのである。その神を求める人の心は、神の命と共にあって生き、仏を求める人の心は、菩薩の境地を求めて共に生きる。人はその歩みから生死を越え、神仏と一如の命の融合に至福を求めてやまぬ心に信仰があり、即ち天界(極楽浄土)へと命を戻してゆく探究心を指す。人として営むこの世を人間界と呼び、命も心もいたずらに世俗の生き方に染まることなく、俗世間からの命を離れて出世間(世間の俗事から離れて超然)であれと、命本来の欲のかたちを見極めた正しい信仰に目覚める者こそ、真の幸せを得られるというのが実相、真理である。

〔経典によって説かれて来た事〕

「温かきは育つ道、冷たきは枯れる道、温かき心を養い神と共に歩め」と、ある御嶽山信仰の教本の中にあった。誠もっての心理であり、感情の起伏の激しい私も信仰への志をそのような洗心に勤めてゆこうと思うのである。その洗心というものに「六根清浄」という祓い祝詞を御存知であろうか。「天照大神のたまわく、人は即ち天の下の御霊(みたま)ものなり、すべからく鎮め鎮まる事を司るべし」と始まるのであり、心に触れる不浄を祓い、神と共に歩む心を養う為に唱える祝詞である。六根とは目、耳、鼻、口、身、意を指し、清浄とは心の汚れを祓って清らかな状態にする事を意味する。この六根(目、耳、鼻、口、身、意)はまた我々の欲(煩悩)の源でもあり、罪となる不浄な心を作り出す基となるものである。
 我々は見たり、聞いたり、嗅いだり、言ったり、触れたり、意に思うこの六根からの不浄の行為を通して、諸々の悪事を招き、災いを引き寄せてゆくものである。その六根から入ってくる不浄を心に触れずに、清く(いさぎよ)ければ、仮にも穢れることなく、その身は天地の神と同根、万物の霊と同体であり、その心は神と(かみ)との基の主であると。この六根清浄の持つ意味は、煩悩(欲望)に掻き回されて、己の心を痛ましむるなということである。
 人を活かすも殺すも、信仰を尊ぶその一言が知恵となり、また邪言となって己にも人の心にも大きな影響力をもたらしてゆく。

また私が日々に唱えている、「禊ぎの祓い」という祝詞がある。日々心身に付着してゆく諸々の禍事(まがごと)や罪を祓って頂く為に、心から唱える祝詞である。1日の初めの精神修養に、朝の礼拝は神仏と共に有りて気を引き締め、心の行を通して身を清め、共に今日1日のある事を願うのである。経文や祝詞は、神秘的とも言えるそんな深い教が現されているのである。ここに1つ紹介する仏説聖不動三十六童子という経にも、信仰に縋る者への神秘(奥秘(おうひ))が説かれている。

仏説聖不動三十六童子
経文略す
…「本誓悲願の故、千万億の悪鬼行人を?亂(にょうらん)
せん時、この童子の御名を(じゅ)せば、皆ことごとく退散しさらん、もし苦厄の難あら(じゅ)、患者(びょうげんのもの)あらば、まさにこの童子の御名を呼ぶべし。須臾(しゅゆ)にして吉祥を得ん。恭敬(くぎょう)礼拝する者の左右を離れず、影の形に(したがう)が如くに守り、長寿の(やく)獲得(ぎょとく)せしむ」と。

我々は近代科学の発達と現代の進歩発展の中で、このような経の説く信仰の利益を、非科学的とか古く原始的とか言って()()ける人達は多い。けれど、そういった人でさえ、死と向き合う病気や困った時には、必死に神頼みに縋りつくであろう。人間とは根本的には弱いもの。しかもこの文明社会が発達した現代の中でも、祈願や祈祷などは一般社会に根づき、特に信仰を心の糧とする者にとっては、迷信でも気休めでもない人間が本来の性質、普遍的に持つ本性なのである。
 また現代にあっても、我々の物事の考え方には偏りがあり、その道理には不条理が生じ、人も社会も矛盾だらけな世の中である。六根清浄も祓い祝詞も仏説聖不動経も、この現代に知らず知らずに染まってゆく心の汚れや災いから、心身を清め、不浄を祓う祝詞として用いるのである。


〔弘法大師(空海)に学ぶ〕

 我々は何故生まれ、何を価値、糧としてこの世を生きるのか。
 そもそも我々個々の命は何処から来たのか、死んで何処に行くのかも知らないし、またその由縁すら考えたこともないのではないか。
 ただ己という生まれもった性(本能)に従うが如きに生き、極めればその心の織りなすが儘に生きているということではないだろうか。
 そして何時しか人生も佳境を下り始めた頃、これまでを生きてきた過去のこと、これから先を生きる老いと病、孤独や虚しさの中に死への恐怖を意識し始め、生老病死という死生観を通して、己という存在価値を探り始めるのではないだろうか。

弘法大師(空海)は、我々の生と死の由縁について、「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで死の終わりに()らし」と。
 「人は、この人生の一生を通して、自分を覚ることなく終えてしまう。
 人は、ここに生まれきた命がどこから来たのかを覚ろうとしないし、この命の尊さ(今生の生き方)すら判ろうとしない。そして、死して何処に逝くのかも覚ろうとしない」
 人は生まれ、そして死ねばその生の業(因縁果)に従って輪廻を繰り返して流転し、また生まれ変わってきて、前生に宿した運命の如く辿ってゆくことを明している句でもある。
 我々は、何時の世でも生まれてきたその文明社会の中で欲に溺れ、迷い、苦しみながら、ただただ生死の狭間を有我夢中に心を裂いて生きているに過ぎず、本来の生の有益さ、生まれてきたこの【命】の尊さを覚らない。我々は迷える無明の中にあって、この人生【命】の存在意義に心を傾けて覚ることなく死んでゆく。
 所謂、無知蒙昧もうまいであることを諭している。(人は、無知であることも覚らず、知恵に浅く道理に暗いことにも覚めず)この実社会の中で暮らし生きているということ。

 
また、弘法大師が伝える真言密教には、「欲の聖典」と呼ばれる理趣経がある。
 お釈迦様の説く仏教は、【欲】というものを悪として戒めるものである。
 しかし、この経典(理趣経)は、我々の持つ欲のかたちを「欲望」と「意欲」に分け、私利私欲によって罪を犯して人を害し、挙句の果てには身を滅ぼして災いを招くものを「欲望」として戒め、生生発展(生成発展)の生き甲斐を生み出し、福智となる生き方を「意欲」として説いている。 欲は本来人間の本能であり、我々はその欲がなければ誰1人として、今日1日たりとも生きてゆくことが出来ないのである。
 しかし、その欲を過ぎれば災いとなり、罪業となる欲望の人生を戒め、自他共に活かして福徳となる「意欲」の生き方を諭しているのである。我々は物欲、愛欲(性欲)、食欲、睡眠欲などの欲望を増して快楽に溺れ、度を過ぎれば毒となり、更に欲望は絶えず沸き上がって心身の渇きとなって繰り返しながら、自らが病んでゆくのである。その我々はこの世の栄華栄誉、享楽な生活を求めるいろいろな私欲を持ち、これらの欲望の人生を通してやがては自滅の道を辿り、災いや破滅を招いてゆくことになる。


 このような享楽的な欲望から苦しみを生み出す刹那な人生を「小楽」と言って、儚いものである事を諭しているのである。またこの理趣経は、我々の自性である男女間の慾、触、愛、慢というものは本来、清浄なものであると言って、これらをそのまま限りなく受け入れ、欲望を菩薩の道として楽しむのが永恒に尽きない「大楽」であると。その至極の妙智を説く。その「大楽」とは、自他共に活かして社会を益し、日々益々楽しみを増して、自らを向上させてゆく、生生発展(生成発展)の意欲的な人生を指すのである。その大楽的な人生観(実践)こそ、神仏が真実在する信仰心から湧き上がるもので、小楽の欲望を破邪顕正して解き放ち、清浄した大楽の意欲に生きることを指すのである。

人間の本質(本性)は善であるとも、善と悪の同居とも、悪性であるとも言うが、人にはそれぞれが生まれ持った業と徳分がある。理趣経は、その業を戒めて徳分を活かし、自らを破滅させるような欲望の人生を戒め、日々楽しみを増してゆく生き方(菩薩行)を説いた経であり、死後の世に至るまでもの悟りの道(真実の境地)を目指すものである。

また宗教宗派を問わず、世間一般に読経、写経として親しまれている般若心経という経がある。この経は知恵の経と呼ばれ、この世の実相は本来「空(無)」であるという事を明かしたもの。
 この般若心経は、僅か260余文字にして説かれ、仏教の経典一切8万余巻の中より選び出した密蔵の肝心であると。神前にては、神の徳を讃え奉る御経として、仏前には花の咲く御経として、また我らが為には御祈念、御祈祷および懺悔の御経として広く用いられているものである。
 この般若心経を深く鑽仰(さんごう)して読誦(どくじゅ)すれば、この世の闇を照らし、苦を抜いて楽を与え、仏国浄土への光明を得て、彼岸に至るという(とうと)い経である。
 そしてそれは、この世の生死の海を渡す船筏(いかだ)として、自らの供養となり、その功徳を授けて頂くというものでもある。この経の説く真意は、全てのものは本来「空(無)」であることを諭しているのであり、肉体を持つ我々においては、この世の一切の執着を棄てて浄心し、御仏に帰依して「彼岸へ到れ」という大慈愛に包まれた知恵の経文である。

この経文の中で世間一般によく知られているのが「色即是空」「空即是色」という文節である。その「色即是空」とは、この現象世界の物の実在(色)は、即ち(空)であるという事。
 この世のあらゆる物質や現象している社会は本来、形はあっても独自に存在するものは無く、いろいろな要素が組み合わさり、関わり合って一切のものが形として現れ、また活かされて存在していることを言っている。それらいろいろな要素が引きつけ合ったり関わり合って、今こうして我々の肉体も形として現れ、そして常に形を変え、変化し続けているのであり、世の中の形(色)あるものの全ては移ろってゆく実体であることを説いている。
 そもそも本来のものには、もともとは形が無く、いろいろな要素が関わり合って生み出されているという観点から、その本性は(空)である真相を説き現した語句である。
 「空即是色」とは、その逆に(空)の要素に実体(色)は無くとも、こうしていろいろな要素が関わりあって、この現象世界が物質化して実在している事を説いている。我々の肉体もこうして実体はあっても空の観点に立ってみれば、全ては移ろい、何時か滅びてゆくものだという事。
 般若心経は「空」の諦観(ていかん)から、僅か260余文字の経文によって説かれ、「色」物体界と「空」自然界の実相を説き明かした妙智である。
 
 理趣経も般若心経もその極は心妙に深く、その知恵に触れて真実在の信仰に目覚めてくれば心の迷いは祓われ、心の闇を抜いて新たな人生観を生み出してゆくことができることを諭しているのである。

又、個として生きる我でさえ本来、我でも彼でも無いこの大宇宙の生命の中から湧き上がった命である。
 この肉体に宿る生命がそれぞれの人となり、輪廻転生しながらこの現世に生まれ来ているのである。この肉体は両親との外縁を通じて親子としての縁で結ばれているが、我々は本来霊魂として別々であり、その霊魂は神仏と同根の霊を内縁に宿している。それが個々生命の本性であり、前生からの因縁と今生の宿縁、宿業を影として、この現世に映し出しているのである。我がこの世に出生した目的とは、人としての積善を尽して前生からの因縁(罪業)を除き、六根を清浄して生命の源に戻してゆく事にある。

古代中国に起った孔子の儒教では「孝に励む人生は百行の本」と、父母に孝を尽くし、自他を活かす仁の実践を説く。信仰はそれを含めて、神仏に帰依してゆく実践の精進である。我々は人として儒教、道教を基に生き、信仰の実践を通して精進してゆく生活に勝るものはないのである。

キリストは神の愛を伝え、釈尊(お釈迦様)は仏の慈悲を伝え、そしてマホメットは神への服従を誓う。これら3大宗教が世界に拡がる中、孔子は仁の道を儒教に説き、世界の4大聖人として崇められている。また今、世界に密教が拡がりつつ注目を浴びている。
 大日如来の化身と崇められる弘法大師(空海)の器量と学徳の深さは、仏の悟りを両部曼荼羅(胎蔵界・金剛界)に図像化し、仏と神との調和した世界観で描かれている。胎蔵界曼荼羅には「知恵」。金剛界曼荼羅には「人間の精神の働き」。この両部を以って、大日如来の説く真理や悟りの境地が現わされているという。
また、弘法大師(空海)は、人間の精神(心のレベルを10段階に体系した)十往心論を説き、真言密教こそが人間の心の到達できる最高の境地であるとしている。

弘法大師の真言密教(教理)は、これからの宗教の融和を計る統合された総合の信仰と教学の礎として、注目されている原点がここにあるように思うのである。

あとがき

第1章「生きる」へ 第2章「希望」へ まえがき あとがき