(はざま)生きて  信仰と心3
信仰と家族

アメリカ生活で得て来た感想は、多種な習慣や文化性を持った人間同士が、建国二百数十年程度の自由主義国家という大きな環境の中で、それぞれの民族としてのプライドと、自国に対する祖国愛。そして永住して暮らすアメリカ人としての愛国心とが複合し、キリスト教国家の中でそれぞれの宗教感と信仰心を持って生きているという事。それに無宗教、無信仰の人間も人生に夢を馳せて雪崩込んでいる。そういった人種と民族の縮図を1つのアメリカ国家とした、人間マンダラの世界観を浮かび上がらせている。

そんな異国の生活と経験が、私に日本人としての国民性を強くさせ、知らなかった異種の文化を持った世界の広さまで知ることとなった。その経験から1個人の日本人としても自立し、信仰と仕事との両立の人生を歩むきっかけとなってきた。縁は異なものと新たな現実の発見は、人との巡り合わせによって、眠っていた潜在意識が芽生え、それからは日々に神前に向かって祝詞を唱え続け、自らの意識というものに深く焦点を合わせるようになっていった。私にとって神仏と向き合うという事は、自らを見つける修行の一貫でもあり、その精神修養から新たな人生観を学ぼうとするものでもある。

帰国から10数年、幼い頃から私達夫婦と共に信仰に馴染んでいった長男は、門前の小僧習わぬ経を読むの如く、一応の祝詞や般若心経などを覚え、長女も2歳の頃から、拙くも祝詞や般若心経を唱えるようになった。長女は神前やお大師様の前で「いい子になりますように、何々ちゃんもいい子になって、仲良く遊べますように」と、小さな手を合わせて祈るようになった。そんな仕種を見ていると親馬鹿な心が頭をもたげ、わが子ながら利発な子にも見え、祝詞や心経を唱えている気持に邪気がないから、愛らしくも信仰の有り難さが通じてくる。

生まれる前から神様に良いご縁を願って預かった子供たちであるから、ある面では既に私達両親を越え、性格も屈託なく伸びやかに育っているようである。そして、それぞれが心正しく芯のある子として、また気立ての優しい素直な子として健やかに成長してくれる事を、神仏に切に願える事が、我々親としての幸福感でもある。

私達家族の1年は正月の初詣に始まり、我々夫婦は節分までの日々を、寒参りの行として、毎日氏神様に日参する。
 春には江ノ島弁財天、香取神宮、鹿島神宮、筑波山、富士山への参拝を行い、昨年の御札を納めて1年分のお礼参りをし、新しい御札を頂いて今年1年のご守護を祈願する。そんな我が家の神棚は神様の御札で一杯である。また春には女房が子供を連れて教祖達信徒一行と共に高野山(真言宗・弘法大師)に参拝に行く。(私などは休日に1人で夜行バスに乗り、高野山に参拝する事もあった。)

ある年の事、高野山参拝後に教祖、先達一行と四国に渡り、数ヶ寺の霊場を巡った事がある。その一ヶ寺が善通寺(弘法大師誕生の地)であった。その時、始めて、お寺のお堂の地下に設けられた真っ暗闇な通路の中を壁伝いに「南無大師遍上金剛」と光明真言を唱えながら辿って行く、「戒壇めぐり」という貴重な体験をさせて頂いた。
その真っ暗闇な通路とは、死後のあの世への旅路を想像させる仮想現実の空間であり、彷徨う魂が恐怖の世界へ向かうが如くであった。その闇の通路を手探りで歩み、光明真言を一心に唱える気持は真剣そのもので、救いを請う自分がそこにあったし、全神経が強張るような、死というものへの恐怖心が湧きあがってきた。そんな暗闇の中を尚も進んで行き、光明に照らされた御仏の姿に辿り着いたときには、有り難い御仏の深い慈悲と救いとを切と感じさせられた時で、更なる信仰の大切さに一念発起する新たな目覚めがあった。

そして夏が来きて、御獄山への登拝修行がある。御獄山は1200年も前から普寛霊神・覚明霊神・一心霊神・一山霊神・行者豊獄神霊方々によって、信仰の山として開かれて来た。弘法大師(空海)も生前は各宗教思想の偏狭を越えて登拝し、修業を重ねている。御嶽山の頂上には国常立命(くにとこたちのみこと)をはじめ、大己貴命、少彦名命の三命の大神様が奉られた信仰の山で、山全体が神々の霊域である。

夏山修行は僅か3日間の日程ではあるが、山は時には荒れ、寒さも募り、天候は一瞬にして変ってゆく。そんな険しい山の環境の中では、幼い子をおぶったり手を引いて頂上を目指して行くのであるが、このように神徳を願い、修行を目指す信者を、神は天から側からどのように見守り、愛でていてくれるのであろうかと、そんな思いが暫し脳裏に浮かび上がってくる

私などは日ごろから厳しい精進をする訳ではないが、習慣とする生活の中で日々に信仰を積み重ねている。
 神仏の側から見れば、この世間の人間界を下界とし、我々から神仏を見上げればそこは天国、仏国浄土である。私などに神仏の雄大無碍な御心は計り知れないけれど、御獄山に登拝して下界を見下ろすと、不思議と世間を見る面持ちにも、神仏と同じ心境を味わえているような気がしてくる。

 現代は、親子でも心が通い難い時代であり、冠婚葬祭も形式に留まり、人間関係も理屈、体裁ばかりの常識が先行し、心の育つ環境が少なくなった。私はそんな心を育てる家庭環境を信仰に求めているのである。

その我が家の神棚には常にお榊が添えられ、毎朝、洗米と塩とお水を三方に添えて神前に供える。その左隣には御霊の入ったお大師様の御姿をお奉りし、花が添えられ、炊き立ての新飯やお茶、お水、時には果物や甘い物が供えられる。すべては女房が毎朝勤めてくれるもので、子供達が時折、お榊やお花などの水換えを手伝ってくれる。私はそんなお膳立ての中で、朝な夕なのお勤めをさせて頂いている。
 我が家はお互いの性格が似ているものか、違っているのか、それとも判り合ってくるものなのか、お互いの感情が剥き出しで喧嘩口論は絶えないが、毎朝、神様、お大師様に向かって手を合わせ、夕には今日1日のお礼を日課としている。我が家はそういった意味では、親継承の風習な中で受け継いでいる信仰と共にある家族である。

〔御獄山修行を通して〕

今年の夏も一家揃っての御獄山登拝修行である。私は早20年ほどになる。女房と長男は既に16年目、長女は母親のお腹にいる頃からのご縁で8度目の登拝という事になる。山岳修行(信仰)はなかなか厳しいものであるけれど、家族での信仰にはまた格別な楽しみがある。
 娘などは昨年の辛かった登山の事なども忘れ、家族旅行の気分で、またその日の来る事を楽しみにしている。昨年も家を出てから登り始める頃までは、ずっと旅行気分であった。山道の階段を徐々に登り始める頃から直ぐに辛くなり、疲れたと言っては休み、また少し登ってはおんぶ、だっこと頂上までの高さを見ては、途端に弱音を吐いて甘えていた。それでも昨年以前に比べれば、1人で泣きながらも頑張って登るようになった。
 団体行動での山岳修行は家族にとっても、他の人達と意気を合わせての協同作業であり、他の信徒の方達に迷惑の掛からないように、それぞれの力を理解し合って登る事で、親子の絆もまた深まってゆく。

山の7合目までの各お社までは、バスを利用しての参拝である。その2合目ほどのところに御獄山神社の里宮がある。
バスを降り、このお社までの長い石段を登って、里宮に鎮まる神様に祝詞を奏上して、過去1年間のお礼と今年も招いて頂いたお礼をし、これから山頂登拝までの無事の祈願を皮切りに山岳修行は始まる。登って来た長い石段を下り、またバスに乗って移動する。そして、3合目ほどの所には大又神社がある。バスを降り、再びお社までの長い石段を登って参拝し、これより登拝修行してゆく神々様へのご挨拶と加護を願う。
 4合目には清滝、新滝と1つの山を隔てて2つの滝が流れている。先ずは清滝に行き、子供らも大人に混じってお不動様に般若心経、不動経を唱える。御獄山は夏でも寒いと言われるように、滝場は尚更その肌冷えを感じる。大人に混じって青年男女共々白衣に着替え、頂上登拝のための身の清めの滝行に入る。小さな子供たちはそんな滝の飛沫(しぶき)を浴びて身を清め、滝に打たれる行者の様子を眺めている。この滝行を終えると、身も心も軽くなったことを感じる。
 その後、清滝より山越えをして新滝へと向い、再び滝行を行う。そしてこの日の最終登拝が、5合目程にある八海山神社への参拝である。八海山神社の神様にお礼参りと祈願を済ませ、この日は側にある旅館に1泊するが、夜には「め」のご修行と八ツ行を行う。これが1日目の行程である。(*「め」とは、身体の「目」と、心の「め」を指す)

翌日は早々に御来光を拝し、朝食を済ませてバスで7合目へと向かい、三笠山に鎮まります神様に登拝し、祈願とお礼参りを済ませて下山する。これより頂上奥杜までは徒歩での登山となる。
 先ずは遥拝所に行って無事登拝できる事を、山頂に鎮まる三神の神様に祈願し、不動明王にその途の一助を願う。女房は長男と一緒に、私は長女を連れて石っころを蹴飛ばし、お喋りしながら、これからの登拝の険しさに長女の気を()らせて心をほぐさせる。

登山は小さな子や年輩の方には尚更厳しく、大小の石がごつごつとはだけた山肌を、最初は楽しく登ってゆくそんな娘の後ろ姿に、自分自身が励まされ、この先のきつい登山に勇気すら与えてくれる。山頂に建つ山小屋は登り口からも小さく見えてはいるものの、そこまでは遥かに遠く高い距離である。娘には一気の気合いを入れて励ますが、徐々に足腰に疲れも溜まってきて駄々もこね始め、我が儘も出てきて力の限界の来るのも早い。
 擦れ違う他の行者さんや山から降りて来る登山者たちが「おお、こんな小さい子が、偉いね、幾つだ、いい娘だね頑張りよ」、と励ましの声を掛けてくれるが、その励ましが逆に不機嫌の限界に障ってしまう事がある。
 そんな時には、途端にこれまで耐えていた我慢もぷっつんと切れて、天の邪鬼と化し、「偉くない、いい娘じゃない、頑張らない!」と、気勢一杯に発しながら、小さな手で頭に被っていた帽子を取って地面に叩き付け、歯を食いしばり涙を流しながら、溜まっていた気持を一気に外に晴らす。そんな子供の姿を見て、廻りの人たちは笑いを抑え、私に目配せしながら下山して行く。

 昔から山岳信仰を修行として登った先達行者や、登山者によって(なら)された山道が、細く蛇行しながら山頂へと長く続いてゆく。もう娘はふらふらで、だっこ、おんぶとせがむけれど、水筒の水を与えて石に腰掛けさせ、一休みしながら私も娘の目線と同じほど疲れている事を伝えてあげる。
 山の九合目程まで来ると一口水と呼ばれる場所があり、僅かな岩清水が滴っている。そこは登山者が一息いれて汗を拭い、その新鮮な水で口の渇きを潤し、清涼な空気を一杯に吸いながら山岳の景色を眺めて、溜まった疲れを癒す所である。
 あとは山頂までの山小屋が一歩ずつに見えてくるほどのところでもあるが、尚も大小の岩場が行く手を阻む・・・もう一息ほどの休憩では娘の辛抱も極限に達している。口を尖らせて、岩場の石段に背を丸めて斜めに曲がったまま座り込み、帽子も斜めに被った儘の放心状態になってしまう。「もう僅かだから、さあ登ろう」と言っても動かない。気分の回復を待って一服二服、さあその意気だと山頂を目指させるが、口も聞かずに20歩登っては一休み、20歩登っては座りこみ、後ろから登って来る人達にはどんどん追い越され、その悔しさだけが全身の気性に現れてくる。
 親でさえ既に気力との葛藤であり、「がんばれ!」と勇気付けて励まし、疲れ果てた気を逸らしては心をほぐし、気を押して、さらに頂上を目指させて手を引き続ける。そんなこんなの山小屋までは気持が()いても足が重く、直ぐそこに見えている山小屋には、なかなか着かないし、娘には最後の正念場である。

この1つ1つの辛抱とその1つ1つの気力の壁を越えてゆく事が、娘にとっても精神的に鍛えられる心の修行である。常に目線を頂上の山小屋に向け、とうとう娘の気の範疇にまで届く距離に入ってくると、今度は一気に気分も変転し、親より先にと頂上を目指す一歩に力が入ってくる。
 娘にとっては親より先に着く事で、これまでの辛さを全て吹き払う勝利の印なのである。

 (たくま)しくも愛らしくなった娘が、母や兄、先達一行と共に険しい山を辛く楽しく修行した体験は、これからの一生の人生にも例えられるであろう。これからもまだ何十回となく登拝するであろう御嶽山の山岳信仰を通し、長男の人生にも娘の人生にも染み入る本当の心の修行は、今始まったばかりである。

……頂上には密かに、そして誇張しない奥社が建っている。
 今年も参拝できたお礼とこれから1年の守護を祈願し、子供達の健やかな成長と家族全員の幸せと繁栄を願う。
…そして山小屋で一息の休憩と食事を取り、今度は山小屋に残る行者の方達に娘を預けて、私と女房は健脚な人達と共に、長男を連れて剣ガ峰奥社本宮へと登拝してゆく。
 この剣ガ峰奥社は、標高3,067メートルほどのところにあり、無限の空の広がりを背景に、神が修験者に身を変えて沈静に立ち尽くし、信仰の奥の深さを示現しているかのようである。
 そんな光景を眼に留めて礼拝し、これより更に奥へと山を下り、谷を越えて二ノ池、三ノ池へと目指す。
 この池は、山の峰に囲まれた清閑な谷間に位置し、貴重な御神水を貯えた龍神の鎮まる聖域である。
 剣ガ峰を降ってニノ池へ、二ノ池から登降を繰り返しながら三ノ池へは、岩に面する崖っぷちの急勾配な下り坂があり、既に疲労も溜まっている登拝にあって、ここからの登降が一番の難所となる。足場に気を付けながら蛇行した勾配を降りて行くと、一輪の花が岩場の影で寒さに耐え、厳しい強風に(さら)されながら、山の短い一夏に咲いている。そんな花の命の強さと儚さと虚しさが、我が眼に焼き付いてくる。
 ここは既に下界を見下ろす事の出来ない、深い山岳の奥地である。我々信仰者は山を下り、三ノ池に鎮まる龍神を拝して、持って来た水筒に御神水を一杯に頂いて一息し、余す体力をもって再び降りて来た坂を登って山小屋山頂へと戻るのである。そして多少の仮眠を取って夕食を済ませ、夜には再び山頂にて八ツ行を行う山岳信仰への修行登拝である。

明朝には御来光を拝して朝食を済ませ、地獄谷を右手に見ながら奥の院を回って参拝し、下山の途につくのである。
 
 こうして日常の生活を離れた3日間の修行に入り、先達から信徒へ、親から子へと山岳信仰が受け継がれ、今では立派になった青年達を見ていると、清々しい限りである。またその若者たち一人一人の心の成長を思うと頼もしく、親にとっても嬉しい限りである。


続く:信仰が伝えてきたこと

第1章:【生きる】 第2書:【希望】へ まえがき あとがき